[ 弐十六 尚侍の恋 ]
四の君懐妊の知らせは、瞬く間に宮中に広まった。
わけても後宮──現帝の妃が住まう麗景殿、弘徽殿、梅壺。東宮のおわす梨壺。さらには時のひとである絢貴の実妹たる、尚侍の住まう宣耀殿。
どの殿舎でも、飛び交う噂話はひとしきり、これ一色に染まった。
同様に、宮中で顔を合わせるたび、誰もが申し合わせたようにこの話題を口にする。
「摂関家嫡流の絢貴どのと、右大臣家の四の君。ともに世に名高い御方々。お生まれになる御子も、さぞやお美しいことでしょうな」
「女児であれば、まず間違いなく次代の后がねの筆頭でございますな。いや、お羨ましい」
「このところ、四の君の御気分が優れぬごようすとは聞き及んでおりましたが、いやはや、嬉しい結果でございましたな」
しきりと羨む殿上人たちの声は、清子の耳にも届いている。
兄夫婦の吉報に、もちろん清子は喜んで見せた──とりあえずは。
父左大臣とまったく同じ懸念を抱いたものの、やはりこちらからあれこれと尋ねてみるのも気が引ける。文にしたためるなどは論外だ。
「──尚侍」
ふいに掛けられた女東宮の声に、物思いに沈んでいた清子は、はっと顔を上げた。
碁盤を挟んで向かい合った東宮が、困ったように微笑んでいた。
「失礼いたしました。わたくしの番でございましたか」
「ええ、それもあるけれど」
少女らしい容貌に、成熟した女の色香がほの混じる。ふたりきりの時に、女東宮はよくそんな表情を浮かべるようになった。
「いったいどうしたの、尚侍。何をしていても、うわの空ね。それではまるで、あなたが身籠もったようよ?」
指先でつまんだ碁石を元に戻し、清子は微苦笑を浮かべた。
「わたくしには、無理なことですわ。東宮さま」
それは、あなたさまが一番ご存知でしょう──と、目で語ってみせる。
たちまち頬に血の色をのぼらせた東宮に、つい、笑みがこぼれた。
「……意地悪ね、尚侍」
居心地悪そうに身じろぎする少女に、清子は軽く頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝罪が聞きたいのではないわ。わけを訊ねているのよ。──何がそんなに気掛かりなの?」
東宮が純粋な好意から訊ねているのは、痛いほど分かっている。
けれど、真実を語ることは、決して出来ない。
「お心遣い、まことにありがたく存じます。ですが、気掛かりと申しましても、他愛のないことなのです」
「それを訊いているのだけれど。……わたくしには話したくないことなのかしら?」
ふと、東宮の表情が翳る。
そんな表情をさせるのも、清子の本意ではない。
「いいえ、そんなことはございません。あまりに子どもじみているので、恥ずかしかったのです。──実は、兄のことなのですけれど」
「絢貴どの?」
不思議そうに東宮が小首を傾げた。
「はい。四の君のお加減が悪いと伺った頃以来、まったくこちらに足を向けてくださらぬので。いったい、いつになったら兄の口から直接、話を聞かせてくれるのだろうと」
「まあ、尚侍」
可笑しそうに口元を扇で隠し、東宮はにこりと微笑んだ。
「大切な兄君が、いつまでたってもいらっしゃらないので、拗ねていたの?」
「ええ、その通りですわ。──がっかりなさいましたでしょう」
「そんなことはないわ。ほんとうに仲の良い兄弟なのね、あなた方は。羨ましいほどだわ」
「何を仰いますことか。東宮さまには、このうえない兄君がいらっしゃるではありませんか」
東宮の兄──すなわち、現在の帝である。
「ええ、主上はご立派な御方だわ。でも、ご立派すぎて、わたくしには眩しいほどよ。あなた方のようにはいかないわ」
「東宮さま」
「でも、今はあなたがいるから、いいわ」
さらりと嬉しい言葉を聞かされて、今度は清子のほうが頬を染める羽目になった。
「ほんとうに、こうしていても信じられないわ。どこから見ても、絶世の美女以外の何ものでもないのに」
「東宮さま。それ以上は」
赤くなった顔のまま、清子はやんわりと押し止めた。
やがて夜が訪れ、結局打ち掛けとなった碁盤はそのままに、ふたり御帳の中にやすむ。
清子ほどの身分ともなると、東宮と同じ寝所でやすんでも奇異なことではない。まして、東宮自身が望んだとあれば、疑う者などあろうか。
「どうして、あなたはわたくしなどを受け入れてくださったのでしょうね」
寝物語に囁けば、腕の中で少女が笑う。
「今さらだわ、尚侍。──後悔しているの?」
「いいえ」
はっきりと、清子──清貴は、否定した。
「今のわたくしには、あなた以上に大切な方などおりません」
「良かった。わたくしもよ、尚侍。ずっと、傍にいてちょうだい」
満足そうに囁いて、東宮はいっそう清貴に肌を寄せる。
まろやかな肩を抱き寄せて、清貴は深く息を吐いた。
思いがけず愛しいひとを得た自分とは違い、いまだ絢貴は苦悩の中にいるはずだ。
(兄上──いいえ、姉上。あなたは、どんな気持ちで毎夜を過ごしておいでか)
あれほど慈しんでいた妻が、他の男を通わせた。それが故意であろうと過失であろうと、絢貴がどれほど衝撃を受けたかは想像にあまりある。
けれど、絢貴が四の君を離縁するとは思えない。
すこしでもその気があるなら、密通がはっきりしたその時に、何らかの行動を起こしているだろう。そうであれば、何らかの噂が耳に入ってくるはずだ。
だが、絢貴はいまだ沈黙を守っている。
(何のお役に立てるわけでもない。けれど、お顔を拝見したい。お声を聞きたい──)
尚侍として出仕してから、いや、出仕が決まってからというもの、あれほど親身に相談に乗ってもらい、なにくれとなく世話を焼いてもらった。ただ邸の奥深く、人目を避けて閉じこもっていた自分とは違う。その身の秘密を守るためだけでも、どれほど気を遣っていたか知れないと言うのに。
(どうか、わたくしの許においで下さい、姉上)
自分だけが、姉の悩みを分かち合える。 父の言葉は正しかった。
(どうか、一刻も早く。ひとりきりで苦しまないで──)
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