[ 弐十五 四の君 懐妊<三> ]
背中越しに、互いのようすを窺っているうちに夜が明けた。
ひっそりとした息づかいからすると、起きているのだろうと察しがついた。それでも、声を掛けるまでにはずいぶんと時間が必要だった。
あまり遅くなっては、女房らが姿を見せる。その前に、とりあえず話をしておかなければならない。
ようやく意を決した絢貴は、四の君のほうに向き直り、軽く肩を揺すった。
「姫」
四の君は身を固くしていた。やはり起きていたのだ。
だが、頑なに顔をそむけてこちらを見ようとしない態度は昨夜と変わらず、絢貴は思わずため息をもらした。
「何とも切ないことですね──姫」
振り向かぬ妻の背に、絢貴は淡々と語りかけた。
「この数ヶ月、どうにもうち解けてくださらぬとは思いながら、我が身に恥じるところも思い当たらぬゆえ、ひたすらあなたに誠実であろうとしてきました。今となっては、世慣れぬ私のことをどうお思っておられたかと、申し訳なくも思います」
四の君の反応はない。けれど、固唾を飲んで耳を傾けているのは明らかだった。
「しかし、私たちの心の機微まで、大殿がお察しになれるはずもない。もしこのことをお知りになれば、どれほどお怒りになるでしょう。
あなたは、どう身を処するおつもりなのです。こう言ってはなんだが、今は私より愛情深いらしいそのひとも、ゆくすえまではわかりますまい。
私は、あなた以外の女性に心を移さず、そばにいることが、夫として最良の道だとばかり思っておりました。それが悔しくもあり、恥ずかしくもあり、さても愚かしいことだったのかと考え込んでしまいますが」
我が身に恥じることはないと口にしつつも、絢貴には決して余人に洩らせぬ秘密がある。
それを思えば、夫としての務めを果たしているとはとても言えず、寂しさからか、ほかの男性に身を許した妻を、一方的に責める気になど、とうていなれない。
その心やましさから、自然と口調はやわらかくなる。
いたって穏やかに諭されて、今さらながら罪の意識を感じたものか──。やがて、四の君がすすり泣き始めた。
常ならば言葉を尽くして慰めもしようが、今の絢貴にそんな余裕があるはずもない。
泣き沈む妻はそのままに臥所から起き上がり、
「誰かある──」
女房に声を掛けてあとを任せ、自分のためには朝の支度を命じた。
用意された手水などを使う間も、心は乱れたままだ。
せめて、女房らの前では変わったようすを見せまいと、日課の誦経を行った。
「────」
いつにもまして念入りに、声も高くして経を読んでいると、不思議と心が澄んでいく心地がする。
(やはり、私は現世にあるべき者ではないのか。お救いくださるは御仏のみか──)
若いふたりの確執など知るよしもなく、得意の絶頂にある右大臣は、 早々に左大臣家に懐妊の事実をほのめかし伝えた。
それを聞いた左大臣が、どれだけ驚いたかは想像に難くない。
(なんとも妙な具合になったものよ──)
いったいどうしたことかと絢貴に問い質したいのは山々だが、あれほど立派に独り立ちしている『息子』であれば、あれこれと子細を訊ねるのも憚られる。
(女同士で、赤子を授かるはずもなし。委細承知のうえで、四の君に別の男を通わせたのか。いや、そんなことをすれば、その男にも秘密を打ち明けねばならぬ。あの聡い子が、そんな危ない橋は渡るまい)
では、四の君が秘密に気付いたのだろうか。
(いいや、それこそ、すべてが露見したならば、もっと大事になっているはず。あの右大臣の手放しの喜びようといい、それもあるまい)
色々と思うところはあったものの、世間的に取るべき態度はひとつしかない。
右大臣と同じく、喜びに満ちあふれたようすを装いつつ、左大臣はひたすら我が子のことを案じていた。
左大臣家から、さっそく祝いの品々が届けられたとき、絢貴はいまだ惑いの中にあった。
(父上は、今度のことをどうお考えであろうか──)
普通の男であれば、子が出来たと聞けば諸手をあげて喜び、妻を慈しみ、それこそ生涯でも指折りの充実した日々を過ごしていただろう。
あるいは、最愛の妻が不義を働いたと知って嫉妬に狂うか、今の妻を見限って他の女性に慰めを見出すことも出来ただろう。
今にして思えば、ふりだけでも、そうすべきだったのかも知れない。けれど。
(私には、出来なかった)
四の君だけが悪いのではないと、分かっているからだ。
結婚して数ヶ月、どれほど優しく接しようと、その肌身に指一本触れることのない夫に四の君が深く悩んでいたことに、絢貴は気付いていた。
権門の姫として、気位高く育てられた四の君にとって、それは絢貴の秘密と同じほど、余人に洩らせぬ悩みであったに違いない。
だが、絢貴には、四の君の憂いを晴らすことは決して出来ない。
(──私のことを愚かとも、理解に苦しむとも思っている男が、どこかにいるのだ)
出仕していても、その思いばかりが心を占めて、気安く他人に交わることなどとうてい出来ないでいる。
また、一歩内裏を出れば、いくら四の君を責める気持ちに乏しいとは言え、今までと変わらず仲睦まじくするのもおかしいと思い、以前ほどには足繁く通わずにいる。
すると、四の君のほうでもますます身を恥じる気持ちが強まるようで、たまに絢貴が訪れても、うち解けたようすなどまったく見せない。
そうした妻の態度を見るにつけ、絢貴の心はますます四の君から離れていく。
(やはり、契りを結んだ男こそが、心にかなう相手なのだろう。たとえ子はもうけられぬとも、ただひとりの女性として大切にしてきたが、所詮は無理なことだったのだ)
真実の夫には決してなれない我が身を厭い、絢貴は次第に現世への執着をなくしつつあった。
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