[ 弐十四 四の君 懐妊<二> ]







 いつになく邸内に落ち着きがないのには気付いていた。
 しかし、悪い雰囲気ではない。むしろ家人の顔はどれも明るい。浮かれていると言ってもよいほどだ。
 けれど、まさかこんな知らせを受けようとは、さすがの絢貴にも想像の外だった。




「若殿さま。およろしければ、ひとこと、お知らせ申し上げたく」
夕食のあと、機を見計らったように口を開いたのは、中務なかつかさの君と呼ばれる古参女房だった。
「ああ、ようやく教えていただけますか。皆、何か言いたげにしておられるので、気になっていたのです」
 中務の君は、四の君の乳母である。このひとが耳打ちするからには、四の君の容態のことだろうと容易に察せられたので、絢貴は穏やかに頷いた。
 だが、しかし。
「──この三月あまり、姫さまのお具合もよろしくなく、わたくしどももご心配申し上げておりましたが、このほど、それがまったくの杞憂であったと明らかになりまして」
 思わせぶりに言葉を切った中務の君に、絢貴は首をかしげた。
「杞憂と言うと?」
「はい。お慶びに、ございました」
 婉曲に告げられたため、最初、絢貴は分からなかった。
 しかし、乳母の誇らしげな表情を見るうちに、ほとりと言葉が胃の腑に落ちた。
 愕然として中務の君を振り返れば、満面の笑みに迎えられる。
「……姫が、懐妊なさったと……?」
「はい。まことにおめでとう存じます、若殿さま」
 祝辞を述べられても、絢貴は返答するどころではない。
 どくどくと、心の臓が早鐘を打つ。
 何かの間違いではと、祈るような気持ちで問い返した。
「……確かなことなのですか。その──」
「はい。大殿から、もしやそうではないかとのお言葉がございましたので、ここしばらくごようすを拝見しておりましたところ、この目ではっきりとおしるしを確認いたしましてございます」
「そう、ですか──」
 そこまで断言されてしまっては、もはや疑うべくもない。
 せめて動揺しているのを知られまいと顔をそむけたが、それこそ隠せるものでもない。
 だが、その困惑ぶりも、乳母から見れば『こんなにご立派な御方でも、やはりお若くていらっしゃる。お可愛らしいこと』と微笑ましく思われていたことなど、自分のことで手一杯の絢貴が気付くはずもなかった。




 四の君に、会わねばならない──。
 なんとか気を取り直して四の君の対に向かった絢貴だが、そこには今朝とさして変わり映えのしない光景が広がっていた。
 夜具を引きかぶり、こちらを見ようともしない妻。まったく違うのは、周囲の女房たちのようすだ。
「若殿さま。このたびは、まことに──」
 おめでとう存じます、と全員が唱和する。
 これで四の君の具合が良ければ、盛大なお祝い気分になったのだろうが、あいにくと女主人は変わらず伏せったままである。
 大事な体を慮って、女房たちは皆、早々に局に下がり、あとには若夫婦だけが取り残された。
 絢貴は、そっと四の君の傍らに寄った。
「──姫。もう、おやすみですか」
 耳のあたりで囁いてみたが、四の君が顔を上げるようすはない。
 だが、応じられところで、何と言えばよいと言うのか。

(どれほど奇矯ななりで世に出ようと、しょせんは仮の世と思えばこそ、今日まで長らえてきたが──身を処するのが、遅すぎた)

(押しも押されもせぬ左大臣家の奥方として、時めいていらっしゃる母上をお見捨て申し上げたら、どれほどお嘆きになることか。一日たりとわたしの顔を見ないでは、心配でならぬとまで仰ってくださった父上をお見捨て申し上げたなら、何と罪深いことだろう)

(こうしてただ世間に交わることも愚かであったが、そもそも、世の人のそしりを受けぬよう努めてきた、それをこそ身のほどを知らぬと憎く思うひともあったろうか。それに気付かなかったとは、ほんとうに愚かだ)

(こうして妻を娶りながら、いまだその身に触れたこともない。男としてのわたしを、疑う人もあるのではないか)

(すべては、我が身ゆえの咎とは言うものの、このような身の上では幾年も長らえようがないからこそ、ひとり身で過ごそうと思っていたのに。他家の婿になぞなったがゆえに)

 横になりながらも、頭の中には様々な思いがよぎり、とても眠れたものではなかった。世を捨てるには父母の恩が枷となり、かといって、それ以外に良い手だてがあるとも思えない。

(それにしても、相手の男はいったい誰だろう。何も気付かず、こうして右大臣邸に出入りしているわたしを、なんと馬鹿な男かと見ているのだろう──)

 おのれの迂闊さを悔やんでも悔やみきれず、絢貴はその夜を悩み明かした。




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