[ 九 帰京 ]







 この地を訪れたのはまったく正しいことだったと、絢貴はつくづく思う。
 日の高いうちは吉野の宮に教えを請い、日が暮れれば姫宮たちのもとに赴き、月を愛でたり、きんことを爪弾いたり。都を発ったときには思いも寄らない心の平安を手に入れて、絢貴は至極満足だった。
(いつまでも、こちらに留まっていたいほどだ──)
 そう願う心の内を知ってか、誰も表だって帰京を促す者はない。
 姫宮たちと親密な交際を続けていることが、宮のお耳に入らないはずもないのに、宮の態度は変わらず、いつお会いしても好意的でいらっしゃる。
 本当に、ずっとこのまま滞在できたなら、どんなにか幸せなことだろう──。
(父上、母上は、どんなにか心配なさっておいでのことだろう。右大臣家の方々も、いつまでも通ってこない私を、さぞ恨んでおいでだろう──特に、右大臣さまは)
 日がたつにつれ、さまざまに思いめぐらすことも多くなり、ある夜、とうとう帰京を決意した。
「──直道。明日、戻ろうかと思う」
 ここ数日の絢貴のようすを見ていたからだろう。乳母子は、特に驚いた様子も見せず、色代してさがった。
 そうと決めてからの絢貴の行動に迷いはない。
 吉野の宮には、かねて用意の麻の御衣、法服、夜具などを、『つまらぬものではございますが』と口上を添えて献上した。
 身分の上下に関わらずお仕えする人々や姫宮たちには、くれない色の掻練かいねりや織物のうちきなど、見たこともないような美しい色合いのものを選び、さらには絹、綾などの御料も数多く献上した。また、細々としたもの、扇なども、おびただしいほどに献上申し上げた。
 そのあまりの多さと煌びやかさに、宮は困惑顔で、
「このような品々に執着する心は、とうになくしてしまいましたのに……」
「いいえ、宮さま。これらは、わたくしのせめてもの御礼でございます。どうか、お納めくださいますよう」
 実際、絢貴はいくら感謝してもしたりないほどなのだ。それが分からない御方ではない。やがては折れて、それらの品々を受け取ってくださった。
「唯一気に病んでいました娘たちのことを、お頼み申し上げて安心いたしました。これよりは、いっそう修行に打ち込みたいと思っています」
 すっかりと信頼していただいたふうの宮に今さらのことは申し上げず、
「いずれ、お住まいも都にお移し申し上げたいと、思っております」
 そう申し上げると、宮は口元をほころばせた。
「それは、もうしばらくお待ち下さい。あまりにも急なことで、貴方の御為にもなりません。このままでおりましても、思い捨てならぬよう折々にお通い下されば、娘たちも慰められましょう」
「思い捨てるなどとは、夢にも思っておりません。近い内に、また必ずや参じましょう」
 そう約束申し上げると、宮はそれは嬉しそうに微笑んだ。
「貴方からいただいた品々には比べるべくもありませんが、せめてもの手向けに。どうぞ、お持ち下さい」
 そうして、宮から贈られたのは、宮が唐土からお持ち帰りになった、いまだ日本には伝わっていない薬の数々である。
「いけません、宮さま。このような貴重な品をいただくわけには──」
 驚いた絢貴が固辞すると、宮は「それでは、貴方からの贈り物も、いただくわけには参りませんね」と微笑まれた。
「どうぞお持ちください。このような山奥に眠らせておいても、役には立たぬものばかり。貴方に持ち帰ってもらえれば、そのほうが世のためにもなりましょう」
「──分かりました。有り難く、頂戴申し上げまする」
「ほんに、楽しい日々でございました。またの御来訪を、首を長くして待っておりますよ」
「わたくしも……本当に」




 宮へのご挨拶を終えると、姫宮たちのもとへと向かった。
 日々を過ごすうち、絢貴の人柄に心を解かれたのは香姫だけではない。最初は怯えて姿を見せなかった雪姫も、今は袖口に目元を押し当てている。
「残念です。出来れば、いついつまでも、こちらに留まっていたかった──」


  静心しづごころあらしに身をぞ砕かまし 聞きならひぬる峰の松風


 気丈な香姫は、別れの言葉にも涙は見せなかった。


  年をへて聞きならひぬる松風に 心をさへぞ添へて吹くべき


「どうか、風の吹きすぎるたび、わたくしのことを思い出してくださいませ」
「必ず」
 最初の約束通り、絢貴は定位置と化した几帳のかげより近寄ることはない。
 女房たちがすすり泣く中、やがて絢貴は立ち上がり、宮邸を辞した。




 野山の景色は、しだいに秋色を深めている。
「気が付かぬうちに、ずいぶんと季節が過ぎたのだね」
 都への道をたどりながら絢貴が呟けば、随従たちが顔を見交わした。
「ええ、もうすっかりと秋も深まって」
「ゆかりの御方々も、さぞお待ちかねでいらっしゃいましょう」
「本当に──」
 誰もが言葉少なで、それでも足取りは軽い。愛する妻や子の待つ都に戻れるのは、やはり嬉しいのだろう。
 自分の我がままで、ずいぶんと皆を引き留めてしまった。それを思うと申し訳ない気がして、絢貴は曖昧に微笑んだ。
 予定よりも、ずいぶんと滞在を延ばしてしまったので、さぞや皆やきもきしていることだろうとの予想に違わず、左大臣邸に帰り着いた一行は、大騒ぎして迎えられた。
「父上、ただいま戻りましてございます」
「おお──絢貴!」
 待ちかねていたのがありありとわかる風情で父左大臣に手招かれ、絢貴は苦笑しつつも御前にかしこまった。
「ほんの数日と聞いておったに、何日も戻らぬものだから、まさか発心して山に入ったのではないかと案じぬ日はなかったぞ。いったいどこに籠もっておったのだ」
「ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした。父上」
 今にも腰を浮かせんばかりの左大臣に対し、絢貴は落ち着き払っていた。
 そのことに気が付いたのだろう。決まり悪げに居住まいを正し、左大臣は咳払いした。
「……顔つきが、穏やかになったようだな」
「はい。皆に心配を掛けているだろうとは思っていたのですが、思いがけず、充実した日々を過ごさせていただきました」
「ふむ。しかし、世間を離れて、人に知られず歩き回るのは、やはり軽々しいふるまいであろう。以後は、慎みなさい」
「はい」
 神妙に頭をさげると、父君はようやく安堵したように、つくづくと絢貴を眺めやった。
「少し、痩せたか?」
「それはお気遣いなく。上人さまに教えを請う身で、酒食三昧などできましょうか」
「それは確かにの。しかし、もう今は構わぬであろう? 久方ぶりじゃ、つきおうておくれ」
「はい」
 ここしばらく、心配のあまり落ち着いて食事をした覚えもない。左大臣はこれ幸いと膳を運ばせ、久しぶりの親子団らんを楽しんだ。
 しばらくぶりの若君の訪れに、家の者たちもはりきったのだろう。次々と運ばれてくる膳は、いったい何の祝いごとかと思えるような豪華さだ。
「これは、御馳走ばかりですね」
「長の精進潔斎をしておったのだ。少しは食べて、精をつけなさい」
「はい、では遠慮なく」
 箸使いも優雅に食事する息子を前に、左大臣も久方ぶりに美味と感じる酒を味わった。




 




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