[ 八 白菊の恋 ]







「──直道なおみち。いま、戻ったよ」
 あてがわれた部屋に戻り、控えの間に声をかけると、すぐさま乳母子めのとごが姿を見せた。あれこれと朝の支度を整える合間にも、何とも言えない表情でこちらを見ているので、絢貴は悪戯心のおもむくまま、素知らぬふりでたずねてみた。
「どうした? そんな顔をして」
「絢貴さま……」
 ほとほと困り果てたと言おうか、何を言って良いものやら迷っていると言おうか、とても一言では言い表せないようすである。
 かろうじて口にした言葉が、『ずいぶんと遅いお帰りでいらっしゃいますね』と、まるで嫉妬深い妻のようだったから、たまらず絢貴は吹き出してしまった。
「絢貴さま!」
 さすがに傷ついたようすの直道に、絢貴は笑いながら謝った。
「すまない。ずいぶんと心配をかけてしまったようだね」
「心にもないことを、仰らないでくださいませ」
 憮然として答える直道に、絢貴は目を丸くしてみせた。
「そんなことはない。私があちらで過ごしている間、寝ずに待っていてくれたのだろう? 申し訳ないと思っているよ」
 絢貴の背は、直道の目線よりも下にある。上目遣いに見上げるようにすると、直道はふいと視線をそらせた。
「貴方が部屋にお戻りになられぬ以上、お待ち申し上げるのが随従の務めにございます。私が申し上げたいのは、そのようなことでなく──」
「うん。分かっているよ」
 生真面目な乳母子をこれ以上からかうのも気の毒になり、絢貴は静かに答えた。
「どれほど素晴らしい姫君でいらっしゃっても、この私が契りを結べるはずもない。けれどね、直道。本当に素敵な方だったよ」
「絢貴さま……」
 乳母子の懸念は、手に取るように分かる。
 迂闊なふるまいをして秘密が露見してはと、本人以上にそれを心配しているのだ。
 もちろん、その気遣いには心から感謝している。それでも、時として、自身が制御できないほどの心の揺れを覚えることがあるのだ。
 わけても昨晩のふるまいは、まったくもって衝動的だったと我ながら呆れるほどだ。
「中の君は、すっかり恥じ入ってしまわれて、お声をいただくことも出来なかったけれど、大君は応えてくださってね。あのような方は初めてだ。気品も教養もまったく申し分ない。さすがはあの宮さまの姫君でいらっしゃる」
 嬉々として昨晩の姉君のようすを語る絢貴に、直道は再び眉根を寄せてしまった。
 だが、そんな乳母子のようすも気にならないほど、絢貴は浮かれていた。
(本当に、素晴らしいひとだった)
 つい先ほど目にした朝の姿が、今もありありと目に浮かぶ。
 白い単衣襲ひとえがさねばかりでなよやかな姿態は、ほっそりとして絵巻物から抜け出たよう。頭のかたちも、髪のかかり具合も、まったく非の打ち所がない。流れる髪の先は、うちきの裾よりさらに長くあまっていた。
 そっとそむけられた横顔の、透き通るような白さはまぶしいほどで、これ以上清らかなものはあるまいと思われるほどだった。
(唐土のお生まれと聞いては、よそよそしくあまり親しみやすい御方ではないのだろうかと思っていたが、とんだ誤りだった。いつまでも見申し上げていたいお美しさだった)
 思い出すほどに、これきりにしたくないと気持ちがわき上がり、つい絢貴は筆を取った。


 今のまも おぼつかなきを立ち帰り 折りても見ばや白菊の花

 ──今こうしていても、昨夜のあなたのことが忘れられません。いっそ、もういちど戻って手折ってみたくなりました。白菊の花のようなあなたを。


 やがてこの文は香姫のもとに届けられた。




 いよいよ明るくなるにつれ、昨夜の自分のふるまいが思い出されてならず、香姫は後悔しきりだった。妹姫や女房たちにどう思われていることかと考えれば、このまま伏せってしまいたいほどである。
(何と、はしたないまねを)
 いくら感じの良い方だったからといって、初めて会った殿方と、そのまま夜明かしするなどと。当の中納言にも、何と思われただろうか──。
 そこへ届けられたのが絢貴からの文である。
 まるで後朝きぬぎぬの文さながらの歌に香姫が赤面していると、女房たちが口々に返歌を勧めてきた。しかし香姫は筆をとらなかった。
「必ずお返事を差し上げなくてはならぬことでもありませんから」
 そのきっぱりとした態度に、なおも名残惜しそうなようすを見せながらも女房たちは引き下がった。




 返歌のないことで御機嫌を損ねたのでは、と女房たちはやきもきしていたのだが、宵のころに絢貴はふたたび姿を見せた。
 昨夜のように不意うちでなく、きちんと先触れを遣わしてからの来訪であったので、香姫たちも今宵はぬかりなく身支度を調えて対面することが出来た。
「昨夜のあなたも格別でしたが、今宵はまた、一段とお美しくていらっしゃる」
 用意された席に着くなり、絢貴はそう言って微笑んだ。
 昨夜は御簾越しだったが、今夜は几帳越しである。隠しきれない長い髪の一房が、灯火に照らされて濡れたような艶を放っている。
「実を申せば、今宵はお会い下さらないのではないかと案じておりました。昨夜のふるまいを、お許しいただけないのではないかと」
 本当は、断ろうかとも思ったのだ。
 いくら父君の大事な客人とはいえ、昨夜のふるまいは明らかに行き過ぎである。それを理由に断ったとしても、絢貴に反論の余地はない。
「……仰るとおり、考えないでもありませんでしたわ」
 囁くような声に、絢貴はじっと耳を澄ませているようだ。
「けれど、貴方は父の大切なお客様でいらっしゃる。どうか、昨夜のようなことは、あれきりにしていただきとう存じます」
「お約束いたしましょう。お許しのないかぎり、決してこの場所から動くような真似はいたさぬと」
 承諾の声を聞いて、香姫はほうっと息をついた。張りつめていた気持ちが、多少ほぐれたような気がする。
 妹姫は、昨夜の出来事に怯えるあまり、今日は最初から奥に入っていて姿を見せない。同様に、伺候している女房たちも、いつもの半分ほどだ。
 もともとそれほど人が多いわけではないから、こう人数が揃わないと寂しいばかりのところであるが、今宵ばかりはそんな気は露ほどもしない。
 輝くばかりに美しいこの公達に、どうしようもなく惹かれている。そのことはもはや、動かしがたい事実だった。




 




(C)copyright 2005 Hashiro All Right Reserved.