[ 七 香夜 ]







 ふたりの姫宮のうち、姉君の名は香姫。中の君は雪姫とおっしゃる。
 唐土もろこしで産まれたおふたりには、もちろんその時からの御名があるのだが、
「誰にも恥じることはない。けれど、この国に馴染むには、まず形から入るも良かろうよ」
 そう父宮が仰られて、元の御名から一字ずつをとって今の名になった──とは余談である。
 その姉君、香姫は、先ほどからたいそう困惑していた。
 この静かな生活に慣れてしまった身の上には、不意の客人ほど心乱すものはない。まして、それがかつて見たこともないほど美々しい公達となればなおさらである。
 都人とは、こんなにも華やかな御方ばかりなのだろうかと思うと、この山奥で暮らしている我が身が恥ずかしくて仕方がない。それは女房たちも同じようで、不安げな顔を見交わすばかりで誰も表立とうとしない。
 そうして皆で居竦んでいたのも束の間、『音だにもせず──』と若々しいお声に詠みかけられてしまった。
 周囲の女房らに目配せしても、皆、後込みするばかり。
 あまり間が空いてもきまり悪い。仕方なく、香姫みずからが端近にいざり寄り、それに応えた。




 互いに歌を詠み交わすうち、いよいよ月は冴え渡り、虫の声も寂しげに、水の音、風の音、遠く聞こえる鹿の音などもひとつに響きあって、いつもの夜のようでありながら、よりいっそう趣深く感じられる夜更け。
 まるで絵物語の一場面のようで、皆、その雰囲気にうっとりと酔いしれていたのだろうか。奥に引き籠もっていた雪姫も、やがて姉君の傍らに座を移し、口は挟まないまでも、おふたりのやり取りにじっと耳を傾けていたほどだ。
 だからこそ、客人がそのように言い出された時、香姫は耳を疑った。
「このように御簾の外に身を置くことに慣れておりませぬゆえ、人目があるのが落ち着かず、恐ろしい気さえします。どうかお嫌いなさいますな」
 そうしてすらりと立ち上がり、止める間もなく御簾のうちにすべり入られてしまった。
 それまでの夢心地など吹き飛び、あきれ果ててうつ伏していれば、
「あなた、そのようにお厭いなさいますな。ご心配なさるような真似は、決していたしませぬ。おそれ多いことですが、不思議にも、今ひとり姉妹がいるとでもお思い下さい」
 その言葉通り、ただのどやかに話しかけられるばかりだったが、どうしてそんな風に思えようか。
 このような時こそ頼りになる女房がいれば、若い客人の態度をやんわりとたしなめ、それとなく遠ざけてもくれたろうに、このような侘び住まいでは気が利くひともいない。それどころか、あまりに立派な公達の姿に驚きあわて、自らの姿を恥じるあまりに姫宮たちを残して奥に下がってしまった。
(──何としたこと。どうしたことかと寄ってくるひともないとは)
 香姫は心底情けなく思ったが、幸い、客人はそれ以上強引な真似をするつもりはないらしい。そうすると、自分ひとりが取り乱しているのも妙にきまり悪く思えて、無理やり平静を装った。
「隔てがないとは、こうとばかりを仰るものでしょうか。人が何と思いますことか。情けのうございますわ」と疎んじれば、
「そのことについては、ご安心なされませ。この世に交じらいあるかぎりは、なんとしても誠意の限りを尽くし、わたしのことをお知りいただきたいと願ってはおりますが、先ほども申し上げましたとおり、あなたの意に添わぬ真似などいたすつもりは毛頭ございませぬ。
 ですが、ああして御簾で隔てられているのが、どうにもよそよそしく感じられてならぬのです。ただ本当に、わたしを隔てなさる必要などないことをご理解いただきたく」
 ごくゆったりと、穏やかに話すようすは、まったくその通りなのかと信じてしまいそうになる。
 一方、香姫の傍らに座していた雪姫は、突然のことにかわいそうなほど怯え、恥じらい、衣をかぶるようにして小さくなってしまっている。
「あなたさまのそのお言葉がまことだと申されましても、この子にはまだ、早うございましょう──」
 そう断って、几帳に囲われた奥へ入るよう雪姫をうながした。
「ああ、そのようにわけ隔てなさいますのか。真実、どちらの御方も同じようにと思っておりますのに」
 そのひどく落胆した物言いに、続いて奥に入ってしまおうとしていた香姫は、思わず足を止めてしまった。すると、それと気付いた客人が、そっと香姫の袖をとらえた。
 振り向くこともできずに竦んでいると、すぐさま手は離れたのだが──。
「せめて、あなただけでもこちらにおいでになってください。この美しい夜、ひとり過ごすはいかにも無粋というものでありましょう」
 その時、どうして、素直に客人の言葉に従ってしまったのか。
 気が付けばふたり、間近に添い伏し、風の音に耳を傾けながら、互いの囁く声に聞き入っていた。




 夜が明けゆくにつれ、香姫はしだいに自分を取り戻した。こうして殿方の傍らで一晩を過ごした我が身が信じられず、身の置き所なく横たわっていると、
「ああ、もう夜が明けてしまいますね──」
 客人が衣擦れの音をさせて起きあがり、白みはじめた空に視線を向けたようだ。
「このまま、いつまでもこうしていたいところではありますが、そうもいきますまい。名残は尽きませぬが、また、今宵」
 香姫は返す言葉もない。ただ恥じらって顔をそむけていると、ふっとかすかな風がそよいだ。
 つぎに香姫が顔を上げたとき、もうそこに客人の姿はなかった。
 ただ、この一夜でかぎ馴れてしまった名残の香が、かすかにただようばかり。




 




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