[ 六 風の音 ]
良き師、良き弟子を得た日々は夢のようで、瞬く間に二、三日が過ぎ去った。ことに吉野の宮は絢貴の姿、その才能に耽溺するあまり、日々の修行も怠りがちになったほどである。
その日は、絢貴がかねてから興味を寄せていた琴の琴を聞きたいと申し上げ、深夜、澄み渡る夜空に月の輝くころに吉野の宮に奏していただいた。その音色のもの悲しく、趣深いこと、かつて耳にしたこともない。
ただ残念なことに、宮はさわりのほどで止めてしまわれたので、余韻つきぬ絢貴が替わって演奏してみたところ、寸分違わぬように弾いてみせたのには、さすがの宮も感嘆しきりだった。
「良く修練なさっておいでのことだ。私がお教えできることも、さほどありますまい」
「ありがとうございます。しかし、やはり本筋をお修めになった方からすれば、いたらぬ点も多くありましょう。先ほどの曲なども、初めて耳にいたしました」
「そうですか。私がお教えしても良いのですが──このあとの手は、先日申し上げた私の娘たちにも教えておきましたが、間違いなく修得しているようです。この吉野の山風に耳慣れてしまった私の聞き間違いでなければ、ですが」
「幼き頃から父君の手ほどきを受けておられるのですね。羨ましいことです」
「なんとも面映ゆいのですが。せっかくこの地においで下さった貴方に、ましてそんなお言葉をいただきながら、あの者たちの音をお聞かせせぬも失礼でしょうね」
「お許しいただけるのであれば、ぜひ」
絢貴は姫宮たちとの面会を望んだが、常であればすんなりと許されるはずもない。
ところが、宮はその夜にもさっそく娘たちの部屋に出向き、
「先日より、こういう御方が御訪問下さって、滞在なさっておいでです。こちらでお話などしてごらん。格別なごようすの御方です」
驚いたのは、姫宮たちである。
「父上さま──それは、あまりに急な。お客さまがおいでとは存じておりましたが……」
かろうじて姉宮が困惑を口にしたが、宮は意に介さない。
「さぞ急なことと思うだろうが、なに、心配することはない。そのような御方ではないから」
そうして、姫宮たちの部屋を手ずから指図して整え、次の夜には実際に絢貴を招いてしまった。
暁近くなってのぼった月に霧がかって趣深い夜のこと。端近に出て物思いしていた姫宮たちは、いつものように父宮がおいでになったのを出迎えた。
ところが父宮はひとりでなく、その傍らに、かつてまみえたことのない美しい客人を伴っておいでだった。
不意の訪れに驚いた姫宮たちは、とっさに奥に引き籠もろうとしたが、それを止めたのは吉野の宮である。
「そのままでおいでなさい。この世づかぬ住まいで、今さら何をかしこまろう。世のひとと同じにおもてなしすることもなかろうよ」
穏やかに父宮に諭されても、年頃の娘たちは恥ずかしくて仕方ない。
なんとも進退窮まったものの、かろうじて廂のあたりに留まったのも束の間、
「絢貴どの。どうぞ、こちらへおいでください」
父の案内で訪れた客人が、すっと月光のもとに姿を現し、姫宮たちも女房たちも、思わず知らず目を奪われた。
「つまらぬ者たちではありますが、なんなりとお話ください」
「ありがとうございます」
簀子に座した絢貴をそのままに、吉野の宮は娘たちに言い含めた。
「何も心配することはない。いい加減な御方ではないから、安心してお話などしなさい」
そうして、父宮はすぐにも寝殿に戻ってしまった。
姫宮たちもさぞ困惑したろうが、戸惑っていたのは絢貴も同じこと。
吉野の宮のお招きにあずかり、持参したなかでも最上の香を焚きしめ、念入りに身支度して伺ってみれば、姫宮たちは明らかに何も聞かされていなかったと見えて、身の置き所のないようすである。
(宮も、おひとの悪い)
普通では考えられぬ、この厚遇。それだけ信頼を得たと喜んで良いのか、或いは。
色々と考え合わせることは多かったが、ともあれ、このまま黙りこくっていても仕方がない。
あらためて周囲に目を配れば、こちらのお部屋は少し奥に引き込んであって、小さな寝殿をさらにすっきりとした風情にしてあるのも素晴らしい。心遣いの行き届いた方々のお住まいだと知れる。
時がたつにつれ、建物の内も外もひっそりと静まりかえって人気もなく、ただ水面に映った月ばかりが明るい。
(このように人寂しい地で、つれづれに物思いしておられる姫宮たちの御心のうちは、いかようにか)
そう思うにつけ、たいそういたましいように思えるが、その一方で、唐国のお生まれであれば、この国のひとのように、もののあわれなどはお分かりにならぬのではないか……などと想像してみるもいっそう興味をそそられる。しかし、何しろ人声はおろか、気配というものが絶えてない。
吉野山 憂き世背きにこしかども 言問ひかかる音だにもせず
──憂い多き世を離れて、ここ吉野を訪れましたが、どなたもおいでにならないようですね
「残念なことです」と、吐息混じりに呟けば、ややあって、几帳の向こうで身じろぐ気配がした。
絶えず吹く峰の松風我ならで いかにといはむ人影もなし
──松風だけが、私のもとを訪れて問いかけてゆくばかりです
そのほのかな気配はたいそう上品で、こちらが気恥ずかしくなるほど奥ゆかしさがある。都でも、これほどの雰囲気をもつひとは滅多にいないだろう。
「おふたりのうち、どちらの御方だろう」と思うが、はっきりとした決め手もない。
おほかたに松の末吹く風の音を いかにと問ふも静心なし
──どの梢にも吹きゆく風の音と思えば、私に言葉を掛けてくれたのかと気に掛かって仕方ありません
「お声を掛けてくださったのは、ただ梢を吹きゆく峰風でしょうか。それとも、わたくしに?」
世の男女のように、懸想じみた問答はせず、ただ穏やかにこの吉野を訪れた事情などを申し上げれば、すこしは慣れてこられたのか、折々には言葉少なに答えが返る。
その優美な気配や心遣いを感じるにつけ、
(私には勿体ないほどの方だ。あの宰相中将なども、このような御方がこの地においでとはご存じないのだろう。もしそれと知ったなら、さぞ驚いて、夢中になるだろうに)
と、彼のひとが思い出され、我が身とひき比べて自嘲の笑みがもれた。
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