[ 五 宮の予言 ]







 その夜は、両人にとって得難い日となった。
 絢貴の目から見た吉野の宮は、想像していたよりも、さらに清らかに若々しい御方だった。修行におやつれのようで、たいそう色が白く、つむのあたりも青々として、なんとも気高く、爽やかな香気が感じられる。
 宮が御所望になられたこの頃の都のようすや、宮がお過ごしになった唐土もろこしのようすなどを互いに物語し合ううちにも、なんと聡明な御方かと認識を新たにした。
(この御方ならば──)
 わずかな間にすっかり心服した絢貴の心持ちは、そのまま相手にも伝わったのだろう。いよいようち解けて語り合ううちに、宮は、昔の御自身の経歴なども交えてお話になられた。
 希望に満ちて唐土に赴いた若かりし頃。妻となった女人との出会いと別れ、大切なふたりの娘たちのこと、ようやく帰り着いた祖国で受けた、謂われなき讒言ざんげん
「私の望みはただ、御仏にひとすじにお仕えすることではありますが、娘たちの身の上を思えば、まったくきっぱりと思い切ることも出来ないでおります。これと言った後見もなく世の風にさらされたならば、どのような運命を辿ることか。まして、身に覚えなきこととは言え、一度はそら恐ろしい嫌疑を掛けられたこの身、その血縁となれば、当たる風はさらに激しさを増しましょう」
 訥々と、心の奥をさらけ出す宮のごようすは、聖というより、ただひとりの父親の姿である。
 上品にしみじみと、どこか他人事のように仰るようすは、かえって聞く者の涙を誘う。
 絢貴もいたく同情し、
「そのようなご事情でございましたか。わたくしも、ただ今の身の上は、人よりも心細くも口惜しくもあるわけではございませんが……」
 いとけない幼い頃より世の倣いに違い、奇矯ななりで過ごしてきたが、成人してようやく我が身のありように悩み、しだいに身の置き所がなく、いたたまれない気持ちで過ごしてきたことを語る。
 はっきりと『女の身でありながら、男として生きてきた』と明言したわけではない。しかし、宮はその絢貴の告白を聞いて、なにごとか得心なさったようだ。
「なるほど、御仏の教えにそむくこととさぞお悩みでしょうが、それも今しばらくのことです。何と言ってもこの世のあなたの咎ではなく、さきの世からの因果にほかならないのですから」
 不思議な気持ちで顔を上げた絢貴に、宮はにこりと微笑まれた。
「ともかくも、周りの方々がなにかにつけ、貴方のことを心配なさっておられるこの世にあって、世を嘆き人を恨むというのは、まったく心幼く、悟りにはほど遠いことお思いなさい。さらに申し上げるなら、貴方がこの現世をお厭いになる必要もございません。ついには思いのまま、位をきわめることにおなりでしょう」
「宮さま……?」
 絢貴が言いかけるのを手振りで制し、
「これ以上は申し上げますまい。いつか、それと思い当たられることもありましょうから」
 それをくくりに、宮は微笑むばかりで絢貴の戸惑いには答えてくださらない。
(私のことを、いったいどうご覧になられたのだろう。この身の上で人臣の位をきわめるなど、とてもそんなことになろうとは思われぬ)
 宮のお人柄に心酔する気持ちは変わらずとも、釈然としない絢貴である。




「姫君たちのことですが……はかばかしき身の上ではございませんが、私が世に交じらいあるかぎりは、御後見申し上げましょう。そのことは、まったくご心配なさいませぬよう」
 絢貴の申し出に、恐縮しつつも、宮は嬉しそうに微笑んだ。
「なんとありがたいことか。これもご縁でしょうか、どうぞよろしくお頼み申し上げる」
 絢貴が、宮を我が師とたのんだように、吉野の宮にとっても絢貴は娘を預けるにやぶさかではない人物と映っていた。
「思えば、昔から決して、ひとの将来の姿などをほのめかしたりはしなかったものを。妙な問わず語りを申し上げたのも、いつものことだとはお思いくださいますな」
 宮は恥ずかしげにそう言い、絢貴も頷いた。
「私も、これがご縁かと思っております」
「そう言っていただけると、なお、ありがたい。……こうして吉野に引き籠もっていても、娘たちのことだけが気掛かりでした。訪れる方もないまま見捨てるわけにもいかず、心重く思っておりましたものを。人のご縁、宿世はそれぞれにありますから、一生をこの山で過ごせなどと遺言するつもりもございません。
 そうは思い定めてはおりますが、その宿世ゆえに、願いが叶わぬこともありましょう。人聞きの悪くないよう、しかるべき身分の方と結ばれよとも思っておりません。宿世の定むるままにと。
 ただ、その宿世のほどがいまだ見定まらず、いまだ遠い先のことよと思うのが心苦しく、わずらわしいことだと思っております」
 娘たちの将来を案じ、苦悩する宮のようすは、どこか自分の父君と重なって見える。
 どうかご案じなさいますな、と絢貴が言葉を重ねれば、我に返った宮が赤面された。
「申し訳ない。貴重なお時間を、ものの数でない話でつぶしてしまうところでした」
 宮が謝罪の言葉を口にされ、絢貴は笑って首を横に振った。




 意気投合したふたりの話題は、尽きることなく広範囲に及んだ。
 この国ではまだ珍しい書物を広げてみせれば、絢貴の学識の深さ、理解の早さに、宮は目を見張る思いである。唐土においても並ぶ者なしと自負する宮自身にまさるとも劣らない。
 興に乗って題を下し、漢詩文を作らせてみれば、これまた唐土から持ち帰った書にもまさった出来映えであるばかりか、その筆遣いの優雅なこと、筆跡の素晴らしさにも驚嘆するばかり。
(何と素晴らしいひとに出会えたことよ。神仏の化身でもあるまいか──)
 一方、絢貴も、宮の口から語られる唐土や韓国からくにの話、諸々の解釈、幅広い知識に触れ、ますます尊崇の念を高めた。
(このような御方が野に下られたとは、なんとも惜しいこと……)
 今まで目の前にかかっていた靄がすっかり晴れ、清々しいほどに澄み渡った心持ちに、我が身の憂いなど些細なことと感じられるようである。
 もう少し、あと少しと互いに時を惜しむ内に、やがてとうとう夜が明けてしまった。




 山の朝は早い。まだ明けも切らぬうちから鳴き交わす鳥たちの声に、ふたりはようやく我に返った。
「これはしまった。到着なさったばかりのところを、ずいぶんとお引き留めして──」
「いいえ、わたくしこそ、貴重なお時間をいただきまして──」
 互いに恐縮しつつ、笑み交わすふたりには、確かな信頼の絆が見えるようである。
「遅蒔きながら、御前を失礼させていただきます。宮さま、それでは、また後ほど」
「ええ。楽しみにしておりますよ」
 そうして絢貴が妻戸から外に出てみれば、きざはしの下で、随従たちがそろって朝露に濡れていた。
 驚いた絢貴は、あわてて階に寄った。
「皆──まさか、一晩中ここで待っていてくれたのか」
 蒼くなった主人に、随従たちは笑顔で応えた。
「なんの。お話が弾んでおられたようで、何よりでございます」
「お顔付きが、いつもと違っておられます。こちらにおいでになって、本当によろしゅうございました」
「そなたたち──」
 いつになく生き生きとした表情の絢貴に、皆にこにこと心から安堵したようすを見せる。
「山の夜は寒かったろうに。本当に、申し訳ないことをしたね」
「ご心配なく。こちらの女房殿より、振る舞い酒などいただきましたゆえ」
「篝火も焚いていただきましたし」
「さあ、絢貴さまもお休みくださいませ。あちらに寝所を用意していただいております」
「うん──、では、そうさせてもらうよ。ありがとう」
 皆の気遣いに感謝しつつ、絢貴は笑顔でその場をあとにした。




 




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