[ 四 予感 ]







 吉野の宮は、先々帝の第三皇子である。現帝の叔父にあたる。
 幼い頃からその才は際だっており、長じるにつけ、この狭い国では勿体ないと思われるほどだった。
 かつては、そのような才溢れる人を十二年に一度、唐の国に送っては、さらに学問を究めさせたものだ。しかし近年、それほどの人材が滅多に現れなくなり、唐土との交流も絶えて久しかったものを、是非にと自ら望んで彼の国に渡った。
 迎えた唐土の人々も、
「これまでも多くの人を迎え、我が国にも賢き人は多いが、これほどの優れたひとはおらなんだことよ」
と絶賛し、やがて一の位におわします大臣の、ひとり娘の婿にと望まれた。
(なつかしい祖国のひとではないのに、とてもそうは思えぬ。この唐国の女性をよく知っているわけでもないが、日の本にいたころに垣間見た女御やお后、姫宮の中にも、これほど美しい女性はなかったことよ)
 心の底から愛しく思い、もはや帰国する気持ちもないほどだったのに、幸せな結婚生活も束の間、娘ふたりを産み落としてのち、妻は帰らぬひととなってしまった。
 その悲しみは、たとえようもない。
「このまま唐土で出家し、御仏に仕えよう」と思ったが、妻の忘れ形見である姫君たちと別れるのも辛く、どうしたものかと思い悩んでいるうち、義父である大臣までもがひとり娘を失った悲しみから床につき、やがて儚くもこの世を去った。
 宮は、この異国での寄る辺を失ってしまった。
 生きる気力も失った宮を、だが、周囲の人々はそっとしておいてはくれなかった。
「今度は、我が姫の婿に」と、時の大臣や公卿らが引きも切らず言葉を掛けてきたが、再婚する意志などない宮は、それらの誘いを片端から断り続けた。
 そうすると、すげなく断られたひとの中には逆恨みするものも多々あり、やがてそれらの人々が宮を殺す計画を立てているというような噂が耳に入ってきた。
(惜しくない命とは言いながら、この外つ国で、我が身を葬り去るも哀しいことよ)
 自分をこのうえなく大切にしてくれ、また自分も心から大切に思う人々がいたからこそ、この国に留まり続けようと思っていたのだ。しかし、それらの人々の亡き今、思い出すのは生まれ育ったなつかしい国のことばかり。
 いったん望郷の念が芽生えると、どうしても日の本に帰りたくなった。そうなると、問題になるのが娘たちである。
 海竜王は、女人が海を渡るのを嫌うと言う。もし娘ふたりを共に連れて帰れば、帰国の途半ばで果てることになるかもしれない。
「ままよ。たとえそうなったとして、私も共に逝けば良いことだ」
 宮の決心は変わらず、亡くなった大臣の息子、義理の兄弟たちの助けを借り、逃げるように唐土を離れた。
 悪しき竜王も娘たちを思う父の気持ちに打たれたのか、意外にも船は停まることなく順調に進み、それどころか嬉しいほどの風に後押しされて無事に帰国できたのだった。




(この私の進退を、世の人に噂されたくはない。唐の女人との間に、子まで成したなどとも言われたくない)
 もはや政りごとの表舞台に立つことなどは露ほども考えず、ふたりの姫を人目にたたぬように連れて上京した。
 そうして落ち着いてみれば、胸に思い起こすは唐土での日々。
 愛しい妻が煙となって立ちのぼった空は、今となっては遥かに遠い。悲しく思っては娘たちを慰めとし、失意の日々を送っていた。
 しかし、何処の国にも同じような輩は存在するもので、独り身となった宮にしつこく縁談を勧める者は幾人もいた。
 だが、唐にいたころさえその気のなかった宮が、今さら妻を側に置く気になるはずもなく、やはりどの話も聞き入れなかった。
 ただひっそりと日々を送ることを望んでいた宮の耳に、やがて、とんでもない噂が聞こえてきた。
 ──この御子、朝廷に謀反の心あり。我こそ国の王たらんとお考えである──と。
 その讒言を茫然と聞き及んでのち、宮は
(すべては、我が身の咎。いまだこの世に恋々と、かつての身分のままに過ごしている私の愚かさのせいであろう。心だけは御仏と共にありながら、なお姫たちの面倒を見つつ、宮廷に交わっている姿の、なんと似つかわしくないことよ。せめて姫たちが物のわかるほどになるまではと日を過ごしてきたが、なんとも悔やまれる)
 と、直ちに決心して、その日の内にも髪を下ろした。
 吉野山の麓に趣深い領地があったので、姫たちを連れて、世の人に知られぬようにひっそりとそちらに移り住んだ。以来、小鳥のさえずりだけが響く静かなこの地で、春は桜、冬は雪に埋もれるようにして過ごしている。
 自分ひとりならば、さらに山奥に引き籠もり、修行に励みたいと思っていたが、やはり後ろ髪を引かれるのは娘たちの存在である。
 姫たちは宮の期待通りに美しく生い育った。母の容貌に似通った面差しはたおやかに優しく、手慰みにかき鳴らす琴の音色も、唐国の本流を受け継いで素晴らしい。
 人よりすぐれたようすを見るにつけ、このような山奥で過ごさせるのがなんとも忍びなく、何とかして世に出し、宮家の姫としての本来の生活に戻させてやりたいと願う。
 ろくな知人とてない今のありさまでは、その実現は夢物語にすぎない。しかし。
(いつかきっと、その機会は来るであろう)
 宮の予感は、やがて確信へと変わる──。




 




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