[ 三 邂逅 ]







 九月の山々のようすは、ちらほらと紅く色づく木々なども見受けられ、えもいわれず美しい。
 忍びの旅のこととて、絢貴はわずかばかりの人数しか供なわなかった。宮のお噂をもたらした男を案内に立て、乳母子と、あとは慣れ親しんだ者を四、五人ばかり。いずれも気の置けない間柄の者ばかりなので、道中もなごやかに進む。
「絢貴さま、ご覧下さい。あちらの木立のなんと紅いこと」
「いや、こちらのほうもなかなか」
「本当だ。どちらも、本当に美しいね」
 供人たちが競い合うように良い景色を指さしては、ご覧下さいと促すのに、にこやかに応じる。
 そのようすに、近頃の若主人の気鬱ぶりを心配していた随従たちも、嬉しそうな気配を隠さない。
「やはり、山の空気は美味しゅうございますね。胸の内がすうといたします」
「都も華やかでよろしゅうございますが、この趣深いようすも捨てがたい。宮様が、こちらにお住まいのわけも、納得いたすと言うもの」
「このように美しい土地にお住まいの御方なれば、さぞお心根も優れた御方なのでございましょう。お会いするのが楽しみでございますね、絢貴さま」
「うん、待ち遠しいよ」
 男ばかりの中に混じると、絢貴はいっそう小柄に、華奢に見える。
 体格に応じたように、足が一番弱いのも絢貴だ。皆、都育ちで山歩きなど慣れていないはずなのに、浮かれ気分で疲れなど吹き飛んでしまうようす。
 最初こそ皆と同じ速度で進んでいた絢貴だったが、次第に遅れがちになり始めた。
「この辺りで、しばらく休憩にいたしましょう、絢貴さま」
 絢貴の性別を唯一知っている乳母子の直道の気遣いで、一行はひとやすみすることにした。
「そなた、先触れに宮の許へ向かってはくれまいか。あちらも色々と支度がおありだろうからね」
「かしこまりました。それでは、一足お先に参らせていただきます」
 今や絢貴の忠実な随従となった案内の男は、足を急がせて宮邸へと向かった。
「絢貴さま、おみ足の具合はいかがでございます」
「ありがとう、こうして休めば大丈夫だよ。それにしても、皆は元気だね。私だけが疲れ果ててしまっているようで、情けないことだ」
「なに、我々は普段、御車のそばでお守りしておりますから。単に歩き慣れているだけでございますよ」
「そんなものだろうか。幼い頃は、庭を駆けても私にかなう者もいなかったのにね。年は取りたくないものだ」
「何を仰いますことか」
 どっと男たちが笑い興じたのも道理、多少の年の差はあれど若者ばかりである。
「絢貴さまがお年であれば、私などは大年寄りでございますな」
 最も年嵩の男が笑えば、
「あんまり切のうございますぞ。私など、いまだ妻を娶ってもおりませんのに」
 一番年若な男が、よよと泣き真似をしてみせた。
「そなたは移り気が過ぎるからであろう。いずこかの女房と、くっついたと思えばすぐに別れたの話ばかりを聞くが」
「おや、心外な。ただいまの北の方に巡り合われる前は、あなたとて同じごようすだったかと記憶いたしておりますが?」
「これは一本取られた」
 再び笑い声に包まれた一同の中で、絢貴は静かに微笑んでいた。
 これほどの得難い友人たちに囲まれながら、自分は俗世を捨てようとしている。
 今回の訪問は宮へのご挨拶にとどめるつもりだというのに、山道を進むにつれ、都の父母のことが妙に思い出され、「今頃は何をしておいでか」と切なくなる。
(いっときの旅路と分かっていてさえ、こう思ってしまうのだ。まして、いよいよ出家をする段になれば、どんな心地だろう)


 涙しもさきに立つこそあやしけれ 背くたびにもあらぬ山路を




「申し上げます。権中納言にて左衛門督さえもんのかみなる藤原絢貴さま、間もなくこちらにお着きでございます」
 先触れが到着したとの一報が入ると、宮邸の人々はにわかに浮き足だった。
「間もなくお着きになられるだろう。部屋など、見苦しくなく整えるように」
 宮のお指図で、邸内は隈なく掃き清められ、柱や床なども磨き上げられている。お仕えする僧侶や女房はもちろんのこと、宮御自身も衣をあらためられ、準備万端整えて、権中納言そのひとの到着を待った。
 さらに半刻ほどして、
「只今、到着なさいましてございます」
 随従と思しき男が門前で声を張り上げてのち、たいそう心遣いをしつつ権中納言一行が姿を見せた。




 こうした貴族の誰かしらが訪れるときは、仰々しいほどのしつらいをし、かえって慇懃無礼であることも多いのだが、権中納言の一行は、そうした派手派手しさとは無縁だった。
 わずかな供人たちは、いずれも節度をわきまえており、主人をたてつつも宮家への敬意を払い、静かに後方に控えている。
 やがて、先導されて宮の待つ母屋へ姿を見せた権中納言は、現れたとたんに、その場にいたものすべての視線を奪った。
 ところどころ秋草の意匠を縫い取りした浮線綾ふせんりょう指貫さしぬきに、尾花色の象眼をほどこした狩衣かりぎぬ。その下は、紅の光沢も美しい衣を抜衿に着込めている。その姿は光り輝くかのように華やかで、たとえ只今極楽からの迎えがあって、雲の輿を寄せたとしても、なおその場にとどまって見ていたいほどの美しさである。
 宮もつくづくと感心なさって、
(すべてが口惜しいほどに褪せゆく世の末なれど、このようなひともまだいらっしゃたのだな)
 そう思いつつ見守っていると、権中納言は落ち着いた物腰で座に着いた。
「権中納言どの。ようこそおいでくださいました」
 宮が歓迎の言葉を述べると、権中納言が深々と叩頭した。
「このたびは、急なお願いにも関わらず快くご承知くださいましたこと、心より感謝申し上げまする」
「ああ、どうぞ、お顔を上げてください。権中納言どの」
 宮の勧めに、権中納言はゆっくりと顔を上げる。
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。けれど、私はすでに出家した身。俗世の身分はお気になさらず、どうぞ客人としてくつろいで下さい」
「有難うございます」
 意外に気さくな宮のようすに驚いたものか、一瞬目を丸くした権中納だったが、やがて花がほころぶように微笑んだ。
 笑うといっそう魅惑的になる権中納言に、宮はあれこれと話しかけた。
「あなたのような若い方が、こちらにいらっしゃるのも久しぶりのことです。ご存知かも知れないが、私は都を離れて久しい。あちらのようすなど、色々と聞かせて下さいますか」
「喜んで。それでは、内裏のようすなどからお話申し上げましょうか?」
「ええ。権中納言どの──いや、絢貴どのとお呼びしてよろしいかな?」
「宮がおよろしければ、どうぞお好きにお呼びくださいませ」
 宮が絢貴を一目で気に入ったように、絢貴も宮に好感を持ったらしい。
 ふたりは、それから時がたつのも忘れて語り合った。




 




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