[ 二 山路へ ]







 宮の快諾を得た絢貴は、さっそく吉野に向かう準備を始めた。
 ただ、訪問の噂が広まることはよしとせず、使いに立てた男にも、同行するわずかな供人たちにも、
「皆、口を慎んでおくれ。あまり騒ぎ立てたくないのです」
 と、固く口止めしたばかりか、父母に対してすら曖昧に告げるに止めた。
「このところ、おかしな夢を見るようになりまして。さる方に相談したところ、山寺で精進潔斎をしてはどうかと勧められましたので、七日八日ばかり出掛けて参ります」
「山寺とな」
「はい。ただ、どこへ行くかはお聞きにならないでください。誰にも知られず、ひとり心を落ち着けて、修行に励みたいと存じますので」
 両親は顔を見合わせたが、四の君の懐妊騒動で絢貴がひどく思い悩んでいることは、痛いほど分かっている。
 やがて、父君がうなずいた。
「それも良かろう。心おきなく仏道修行に専念しておいで」
「ありがとうございます」
 また、ここしばらく足が遠のきがちになっていた尚侍のもとへも赴き、父母と同様のことを告げた。
「そういうわけで、またしばらくこちらに参ることが出来ません。無沙汰ばかりをしていて、本当に申し訳なく思います」
「いいえ、そのような──」
 女房たちの耳に入ることを憚り、人払いをした宣耀殿せんようでんで、絢貴は清子と対面した。
 思えば、こうしてふたりきりでゆったり話をするのも久しぶりのことである。以前はご機嫌伺いに毎日のように参上していたが、その時もたいてい東宮やほかの女房が同席していた。
「それにしても、あなたは出仕なさってから、ずいぶんとお元気になられたようだ。宮中に、思いのほかよく馴染まれたのですね」
 もしやつらい思いをしているのではと気に掛けていただけに、いかにも物慣れた尚侍のようすは、絢貴を安堵させた。
「はい。あのまま邸に籠もっていては、決してこのように伸びやかな気持ちにはなれなかったでしょう。本当に、感謝しております」
「礼など不要です。東宮とも睦まじくしておられるようだ。同じ年頃の友人は得難いものです。どうぞ、大切になされませ」
「──はい」
 清子の返答に、やや間があったのは気のせいだろうか。
「それでは、まだ色々と支度もありますので。あちらから戻りましたら、またご挨拶に伺います」
「はい。……あの。兄上さま」 
 腰を浮かせた絢貴を、清子がためらいがちに呼び止めた。
「何でしょう?」
 問いかけると、何か言いたそうなようすで、けれど、何も言わずに微笑んだ。
「……いえ。山のあたりは、秋の訪れも早いとか。どうか、つつがなくお戻りくださいますよう」
「心得ました。あなたも、風邪などお召しになりませぬよう」




 清子が何を心配していたのか、絢貴にはよく分かった。
 ただ、このたびの吉野行きで、すぐに髪を下ろす気はない。
(初めてお訪ねするなり出家したいと申し上げるは、あまりに浅はかと宮もお思いだろう。まずはお会いして、宮のお人柄も見定めたうえで、ご相談申し上げよう)
 最初からその心づもりだったので、結果として清子の懸念は無用のものだったのだが、それをあからさまに面に出さない賢明さが好もしかった。
 顔立ちが似ると、心のありようまでも似るものか。清子と向き合うと、驚くほど心の中が凪ぐ。
 そのときが来たら、誰に言わずとも、清子にだけは告げようと思う。
 男皇子がお生まれになるまで、と期限を切っての宮仕えだが、今のところ三人いらっしゃる女御さま方には、どなたにもいっこうに懐妊の気配がない。
 あまりにこの状態が長引けば、次の女御を、と言う話にもなりかねない。
 戯れ言に『都一の后がね』と言われてきた清子だが、実際のところ、それは真実以外の何ものでもない。極端な人見知りということで、何とかお声掛かりを逃れてきたのに、宮中の水に慣れたことが、清子を窮地に追いやりはしまいか──。
 そんなことを物思ううち、牛飼い童が右大臣邸に着いたと告げた。




 本来なら、不在にすることを真っ先に告げるべき相手──妻の相変わらずのようすに、絢貴はやはりと思いつつも失意を隠せない。
 かつては、二日三日であっても離れる夜は、不安に思う気持ちを素直に告げ、しみじみと語り合って心の絆を確かめ合ったものだったが、今となってはそれもない。
 頑なに背を向ける妻に、これから数日留守にするという事実のみを告げ、しかも、それに対する四の君の反応も薄い。
(名ばかりの夫より、やはり、事実上の夫こそが浅からぬ仲であるとお考えか)
 そう推量するしてみるも、それを恨むことのできる身でもなし、とあきらめて、素っ気ない顔でいると、四の君はよりいっそう心を閉ざしてしまう。
 結局、出発までにただの一度も心から語り合うことなく、絢貴は吉野へと旅立った。




 




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