[ 二 兆し ]






 
 ささやかな異変に気が付いたのは、袴着はかまぎを終えた翌年あたりだったろうか。



「おや。清貴きよたかはどうしたね」
 寧子姫のもとを訪れた権大納言は、あたりを見回した。
「良い天気だ。庭に出て遊んでいるのか?」
「あら。いいえ」
 夫の出迎えに現れた寧子姫の顔には、微妙な笑みが浮かんでいる。
「外ではありませんわ、殿。若君なれば、こちらに」
「何とな」
 妻のたもとに隠れるようにして顔をのぞかせたのは、五歳ばかりの幼い姫。
 しかし、いかに顔を合わせるのがしばらくぶりとは言え、さすがに我が子の顔を見間違えようはずもない。
「何と。若君か」
「さようにございます」
 くすくすと楽しげに妻が笑うのも道理。何とも愛くるしい姿の『姫』がそこにいる。
「なにしろ、男子にしては、あまりに色が白うございましょう? たわむれに、おなごの衣を着せてみたのですが」
 よく似合っておりますでしょう?と妻は笑む。権大納言も、思わず口元をほころばせた。
「おお、まったく遜色ない姫ぶりよ。どれ、こちらにおいで」
 父に手招かれて、姫の格好をした若君は、おずおずと近づいてくる。
「さあさ、若君。何を恥ずかしがっておいでです」
 母の手に背中を押され、若君は父の腕の中におさまった。
 抱き上げ、そのつややかな髪を撫でながら、権大納言は笑んだ。
「このように幼くては、男女の違いも分からぬのう。何とも愛らしいものよ」
「わたくしにも姫がおりましたら、それこそ飽くことなく衣をあつらえるのですが」
 あいにくと、寧子姫の腹から産まれたのは男子である。
「幼いうちは好きにするが良かろう。いずれ生い育った暁には忘れてしまうだろうからな」
 権大納言は妻のいたずらを寛容に許し、上機嫌でその夜を過ごした。
 
 
 
 そんなことのあった数日後、権大納言は、今度は隆子姫の元を訪れた。
「──おや、絢子あやこはどうしたのだ。姿が見えぬようだが」
 屋内には、妻と側仕えの女房がいるばかり。姫君らしき姿はどこにもない。
「まあ、殿。急なお越しでいらっしゃいますのね」
「姫はどうしたのだと聞いておる。もしや、奥で伏せってでもおるのか」
 大事な一人娘の身に何か──と顔色を変える夫に、隆子姫はあっさりと告げた。
「ご心配にはおよびませんわ。あちらを御覧くださいまし」
「庭に何があると──」
 不審に思いながらも、御簾みすをすかして外を見れば、庭を数人の童子が走り回っている。
 皆だいたい同じような年頃ながら、中にひときわ小さな姿が──。
「ひ、姫!?」
 奇声を発して権大納言は御簾にへばりついた。
 子供たち──少年達の先頭に立っている水干すいかん姿の童子。その顔は、紛れもなく。
「何と。あのように、顔をさらして、走り回って」
 あまりのことに茫然となる夫に比べ、妻は平然としたものだ。
「元気があって良いではありませぬか」
「そのように悠長なことを申しておる場合か! すぐに姫を呼び戻しなさい」
「殿、そのようにお怒りにならずに。これほどに天気が良ければ、おなごと言えども外に出たくなるのは道理。まして、ほんの子どもなのですよ? 幼い今の内くらい、好きに遊ばせてやってくださいまし。いずれ成長すれば、物の道理も自然と分かりましょう」
「む──」
 理の通っているような通っていないような説得に、権大納言は唸った。
「し、しかし、なぜ水干などを着せて」
「袴を引きずって外を走り回るのは無理でございましょう? もちろん、最初はそうしておりましたけれど、やはり、転んでしまって」
「転んだ!?」
「大声を出すのはお止めください。──ええ、それは見事に。その時は大事ありませんでしたけれど、それでしたら、最初から動きやすい格好をしていたほうが安全ではありませんの。転んで、顔に怪我でもしたらどうなさいます」
「それは……確かに」
「それに、御覧くださいまし。わたくしの姫の、なんと利発なこと。あのように年長の子供たちの中にいても、すぐに見分けてしまいます。将来が楽しみですわ」
「確かに」
 庭にいる子どもたちは、いずれもそれなりの貴族の子弟で、身なりもよければ品も良い。しかし、その中にあっても、男装している姫君は一段と目を引いた。なにをするにも環の中心におり、その一挙手一投足に年上の少年達のほうが振り回されている。
「まあ……良かろう」
 驚きが先に立ってつい取り乱してしまったが、よくよく考えれば、それほど深刻になる事柄でもないだろうと大納言は結論づけた。
「まだ、ほんの子どもなのだしな。今は好きにさせようか」
「そうですわ、殿。まだ子どもなのですから」
 にっこりと隆子姫も笑み、夫婦は心の平安を取り戻して、母屋もやの奥に戻った。
 
 
 今思えば、あの時に許してしまったのがそもそもの誤りだったのだと、権大納言はつくづく思う。
 
 
 成長するにつれ、物の道理をわきまえるはずだった子供たちは、幼い頃のままに、それはまっすぐに育った。すなわち、若君はより愛らしく、姫君はさらに凛々しく。
 元からはにかみやだった若君は、ますます人前に顔を出すのをいやがるようになった。
 初めて会う新参の女房相手ならばともかく、父に対してさえ気おくれするようす。日がな一日御簾の中にこもって、気心の知れた女童めのわらわや女房相手に貝覆いやら人形遊びやら、まるでまったき姫君だといわんばかりの生活ぶりだった。
「そなたは男であろう。そのように内にこもってばかりいて何とする」
 その姫めいた生活を目にするにつけ心底情けなく、つい権大納言は声をあらげて叱ってしまう。すると、寧子姫が涙ながらに詫びる。
「殿、どうぞお気を鎮めあそばして。わたくしからも、ようく言ってきかせますゆえ」
 そのように仲裁されては怒り続けるのも大人げない気がして矛先をおさめるのだが、その時には若君はすっかり萎縮してしまい、こちらも涙を浮かべている。
 一方、姫君はといえば、こちらのほうも大問題だった。
 天気が良ければ、例によって水干姿で庭遊び。かといって、天気が悪ければ姫らしく過ごしているわけでは決してない。
「姫や。それは、何かね」
 ある時、姫君が文机ふづくえに向かって何かを熱心に読んでいるのをのぞいてみれば、それは男子の教養として必須の漢籍だった。
「そなた、そのようなものを読んでいかがする」
 思わず尋ねると、姫君はにこりと笑んだ。
「だって、面白うございますから」
 その物の言い様も、はきはきとして実にさわやか。微笑まれると、ついこちらも微笑み返してしまう愛らしさ。しかし、そのくらいならば、まだ良い。
 深窓の姫君は、身内以外の男には決して顔を見せないのが常識だ。それなのに、この姫君と来たら自らすすんであちこちに顔を出して回る。
 訪れた客人が横笛の名手と聞いては教えを請い、博士と聞いては漢籍を学び、いつの間に覚えたのやら古今の和歌をすらすらと朗詠するにおよんでは、そんじょそこらの公達なぞ足元にも及ばない。また、そんな姫君を始終目にする客人の方も、実は姫であるなどとは夢にも思わない。
「いや、何とも利発な若君で、おうらやましい」
「こちらの若君の、ご聡明なこと! 同じ年頃の者で、若君に比肩するような御子は、どちらのお屋敷でも見かけた覚えがございません」
 そんなふうに皆が皆、口々に若君を褒めそやすものだから、つい権大納言も謙遜するような返事を返してしまう。まさかこれは実は姫ですとは、言い難かった。
「こちらの奥方の御子は姫君だとお聞きした気もするのですが。いや、若君でいらしたか。とんだ勘違いをいたしておりました」
 逆に、客人の方が恐縮する始末。そう言われてしまってはますます訂正できない。
 そうして片方が若君と世間に認められてしまえば、権大納言家の子息は一男一女であると世に明らかな以上、もう片方が姫でなければおかしい。おかげで、本当は若君であるはずの『姫』も、今は仕方ないと諦めるに至る。
(どちらも顔はそっくりだのに。なぜ、元の生まれのまま育ってはくれなんだのか)
 ため息をもらしつつ、権大納言は日々願わずにはいられない。
 
 
「御仏よ。なにとぞ、この子らの気質をお取り替えくだされますよう──」



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