[ 五 御簾の内と外 ]







 宮中で働く者は、大きく二つに分けられる。すなわち、御簾みすの内と外とに。
 男は自由に屋外を闊歩する。しかし、御簾の内をのぞくことは許されない。
 反対に、女は外を自由に出歩くことは出来ない。顔を晒すことも。
 しかし、御簾の内から伺い知ることの出来る多くは、女性の特権でもあった。



「御覧あそばしませ、皆様方。太夫たゆうの君ですわ」
 もっとも端近はしぢかに座していた女房のひとりが、同輩達へ注意を促した。
「今日はお早い参内さんだいでいらっしゃること」
「主上にお呼ばれになったのでしょう。何しろ、あの方はお気に入りでいらっしゃるから」
 笑いさざめきながら、色鮮やかな唐衣からぎぬをまとった女房が、ひとり、またひとりと御簾のそばに寄ってきた。
「ああ、今日もあれを御覧になっておいでね?」
 『あれ』と呼ばれたのは、庭にあるたちばなの花。
 太夫の君はここのところあの橘がことのほか気に入った様子で、参内の折りには必ずその側を通る。ひとしきりその白い花を眺めてから、あらためて省庁へと足を向けるのだ。
「あの橘の羨ましいこと」
「ほんに。あのように、太夫の君に愛でられて」
「けれど、そのおかげで私たちもお姿を見ることが出来るのだもの。良かったわ」
「あら、良いことばかりではなくてよ。花が終わったなら、おいでにはならなくなってしまわれる」
「どなたか、今の内にお文を出したりなさってはいかが?」
 ひとりがそう言って周りを見渡せば、皆おかしそうに扇で口元を隠した。
「そうはおっしゃられても。ねえ?」
「抜け駆けなどしては、皆に恨まれてしまうわ」
「いっそのこと、皆で一緒にお渡ししましょうか」
 くすくすと忍び笑いを洩らす女房達に気づくはずもなく、やがて太夫の君は日課を終えて立ち去ってゆく。
「さ、皆様方。朝のお楽しみは終わりですわ。お勤めに戻られませ」




 太夫の君──宮中でそう呼ばれているのは、誰あろう、権大納言家の絢貴君である。
 参内するようになってからこの方、宮中での評判は至極よろしく、少なからず心配していた父君も、胸をなで下ろしていた。
 実のところ、出仕したばかりの絢貴の一挙一投足は、宮中の注目の的であったといっても過言ではなかった。
 帝のお声掛かりでの元服。さて、その人物たるや如何ほどの者か──そうした品定めの視線が容赦なく降り注ぐ中、絢貴自身は緊張しつつも誠実に日々を過ごしていた。
 やがて、人々は彼の君の優れた資質を否応なく目にすることになる。


「お聞きになりましたか。彼の君が、主上の御前で吟じた漢詩」
「おお、聞いたとも。年若いのに、よく通じておられることだ」


「ほお、これは見事な筆跡だ。どなたのものか?」


「今宵の管弦の宴には、太夫の君もおいでになるとか」
「横笛を奏されるとな。それは是非とも聞かせていただかねば」


「愛らしい御子とは聞いておりましたが、何とも」
「まことに」


 一事が万事この調子で、そのうえ、宮中の行事や約束事にも通じているとなれば、まさに非の打ち所がない。
「主上がご寵愛なされるわけですな。いや、ほんにお羨ましい」
「いやいや、まだ未熟者で」
 父君が誰それと面と向かって誉められるのもたびたびで、そのたびに謙遜してみせるものの、誇らしさ、嬉しさは隠しようがない。
 しかし、同時に拭いきれない不安も生ずる。
(今はまだ良い。しかし、この先ははたして大丈夫であろうか──)
 だが、彼の自慢の『息子』は、そのような心配など杞憂と思えるほど、立派に勤めを果たしている。
 このまま、何事もおこるはずがない。そう錯覚してしまうほどに。




 一見、何の憂いもなく、華やかに宮中生活を送っている絢貴君。しかし、誰よりも冷静で、かつ自分という存在に絶望していたのも、実は当人だった。


(私は、何と子どもだったのだろう)


 宮中に馴染むにつれ、悔悟の念は大きく強くなってゆく。
 人間は、誰しも異なる個性を持っている。だから、自分と同じように感じ、生きている者もいるに違いない。何の根拠もなく、そう思い込んでいた。
 現実に出仕をした今になって、それが間違いであったとようやく気付くとは──。


(男と、女はこんなにも違う)


 御簾の内で暮らす女、御簾の外で生きる男。
 その差異は目に痛いほど明らかで、ほんのすこしの例外もない。
 今なら分かる。父君が、どうしてあれほど嘆いておられたのか。
 しかし、今さら後戻りはできない。


(私は、権大納言家の総領だ。それに外れた生き方はするまい)


 絢貴は、その決心に恥じぬべく振る舞った。けれど、その身に抱える秘密の重さから、必要以上に他人に交わることも出来なかった。
 だが、その慎ましさが、皮肉にも周囲には好意を持たせることとなる。身の処し方を心得た、良く出来た若者だ、と。
 本人の憂いだけを置き去りに、その年の秋、絢貴は侍従じじゅうの位を得た。
  




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