[ 六 姫の憂鬱 ]







 盛大に催された絢貴君の加冠の儀とほぼ時を同じくして、権大納言家では東の『姫』の裳着もぎも行った。
 元服での加冠役──これに相当する裳着での腰結い役は、加冠役を右大臣に依頼したように、有力な貴族の誰かに頼むのが慣例だ。しかし権大納言は、第三者ではなく実の父にその役目を請うた。
 そもそもは秘密が露見せぬようにとの選択だったが、その父が時の関白かんぱく左大臣であれば、世の人々も納得しようと言うものだ。特に、同じ年頃の子息を持つ貴族は、権大納言家の幸運を大いに羨んだ。
 しかし当の権大納言にしてみれば、自慢するどころではない。
(何が羨ましいものか。せめて邸に閉じ込めておければ、いつか秘密が漏れはせぬかと気を揉むこともないものを)
 幸い、絢貴は無事に出仕し、主上のお気に入りとしての地位を固めつつある。そのことは素直に嬉しいものの、それだけに、事が公になったときが怖いのも事実。
(こうなればせめて、姫だけでも)
 権大納言がそう固く決意したとしても無理のない話だろう。




 裳着を終えた後も、権大納言家の東の対では、儀式の前とさほど変わることのない生活が営まれていた。
 常の家ならば、裳着を行うということは、姫の婿探しを始めることと同義である。事実、裳着が終わるのを待ちかねたように、世の公達方はこぞって権大納言家の姫に恋文を送り始めた。
 だが、当の姫には決して色好い返事を出せるはずのない事情がある。結果、ただ文だけがうずたかく積まれてゆく。
 その文の山を見るたび、母の寧子姫──今は、東の方様と呼ばれている──が、盛大なため息をついている。
 姫のほうは、よりいっそう人見知りの度合いをひどくした。この頃では、女房の前にさえ姿を見せるのを嫌がって、御簾の奥に引きこもっている有様だった。




「ねえ、あなたは御覧になったことがある? 西の若君さまのこと」
「ええ、もちろんですとも」
 ある昼下がり。御簾越しに聞こえた女房達のささやきに、清子姫はふと耳をそばだてた。
 絢貴がもはや本名を名乗ることのないように、東の姫も『清貴』とは呼ばれない。幸い権大納言家の女子はひとりだけだから、ただ姫と呼べばそれで事足りた。もしくは、一字を取って『清子』と呼ばれた。
 何しろ、今の清貴を男名で呼ぶには、あまりに違和感がありすぎた。十五歳になった『姫』は、父から見てさえ、実は男であるとはとても思えないほどに女らしかったのだ。
 ゆらゆらと衣のうえに流れる黒髪も、ほっそりとした体つきも、まれに耳にする声でさえも、娘そのもの。しかも、極上の美女の部類に入ることは間違いない。
 女房の中でも古参の者ならば、もちろん本当の性別を知っている。だが、新参の女房となると誰も知らない。疑わない。
 同様に、彼女らは西の若君が実は女であることも知らないのだ。
 その『兄』の噂話を耳にして、清子はかすかに身じろぎした。
「どうなさいました? 姫さま」
 すかさず、そばにいた乳母子めのとごの浅黄が気づいて声を掛けてくる。それに目線だけで静かにするよう促してから、清子はまた耳を澄ませた。
「先日、お邸にお戻りになった際に、運良く。本当に、噂通りの御方ね」
「ええ。でも、あなた。こちらに長くお仕えしたいのなら、あの方にはあまりお近づきにならないほうがよくってよ」
「あら、なぜ?」
 首をかしげたのは、まだ年若い女房。この東の対では、一番の新参だ。
「仮にもあちらは西の方様の御子さま。こう言ってはなんだけれど、あまり誉めるようなことを申し上げると、こちらの御方様のご機嫌を損ねてよ」
「まあ」
 新参女房は、軽く目を見張ると、いっそう声を低めた。
「あの、ではやはり。御方様と、西の方様は──」
 どうやら興味がほかに移ったと判断して、清子は小さく吐息をついた。
「あの者、少し口が軽すぎるようですね。御方様にご報告申し上げましょうか」
 浅黄がわずかに顔をしかめて言う。それに対して、清子は首を横に振った。
「よろしいのですか?」
「判断するには、まだ」
 時期尚早。言葉少なに伝えられた意志に、浅黄は頷いた。
「姫さまがそう仰られるのでしたら。ですが、信頼が置けると判断できるまでは、おそばには寄せさせませんからね?」
 頼もしい乳母子の言葉に、清子は頷いて承諾の意を示す。
 秘密が漏れるとすれば、それは人の口を通じてだ。
 決して世間に漏れてはならない秘密を抱える身としては、身近に仕える女房の人選には慎重にならざるを得ない。というのも、女房は主家に縛られる存在ではなく、仕える家を変えることが自由だからで、疑いを持たれたまま他家に移られてはたまらない。
 また、西の若君の性別が疑われても、非常にまずい。何しろ、あちらも同じく秘密を抱える身なのだから。
 ただ、女の身で出仕してはや半年になるが、あちらはうまくやっているようだ。主上にお気にいられたとも、順調に位を重ね、今や侍従職だとも聞いている。
 絢貴は清子の顔を知らない。会ったことがないからだ。
 だが、清子のほうは、絢貴を見知っている。
 御簾の中の世界は、案外外に通じている。庭で小弓や蹴鞠けまりに興じる『兄』の姿を垣間見るたび、清子はいつもふしぎな心持ちがした。
(あの方は、どう思われているのだろう)
 同じ悩みを抱える身。自分が身の置き所のない思いをしているように、己の有り様に悩んだりはしないのだろうか。
 憂い顔の主人に気づいてか、浅黄がそっと退出していく。そうしてしばらくひとりきりの時間を満喫していると、しばらくしてあわてた様子で戻ってきた。
「姫さま、大変でございます」
「どうしたの」
 尋ねると、浅黄はぐっと声量を落とした。
「先ほどお殿様がお戻りになられまして。東の方様とお話しになっておられるのを、小耳に挟んだのですが──」
 はしゃいでいるような、焦っているような、どっちとも付かない様子に清子はますます首をかしげた。
「わたくし、お白湯を持って参ろうとして。そうしましたら、お殿様が仰っておられましたの。今日、主上から、入内じゅだいのお話があったと──」
 その言葉の意味が胃の腑に落ち着くまで、数秒を要した。
「……入、内……?」
 すうっと蒼白になった清子を見て、浅黄は泣き出しそうな表情で訴えた。
「どうしましょう、姫さま。そんなことになったら……!」
 そこへ、ちょうど東の方が戻ってきた。
「どうしたのです、姫。そのようなお顔をなさって」
「──父上とのお話のことで……」
「まあ。とんだ早耳だこと」
 情報源が誰かは明白で、東の方は浅黄を軽く睨むと、ぱちりと扇を鳴らした。
「──皆、すこし下がっていらっしゃい」
 伺候していた女房たちが、すみやかに退出していく。
 衣擦れの音が聞こえなくなるのを確かめてから、東の方は口を開いた。
「お喋りな女房は感心しませんよ。浅黄」
「申し訳ございません、御方様。でも──」
 ほうとため息をついて、東の方は居住まいを正した。
「安心なさい。そのお話は、殿が丁重にお断り申し上げたそうですから」
「本当でございますか!?」
「浅黄」
 再度たしなめられて、浅黄は小さくなった。
「申し訳ございません……」
「忠義者なのは、嬉しく思います。けれど、腹心のそなたが不確かなお話で姫を惑わしてどうします。そなたにこそしっかりして貰わねば」
「はい」
 浅黄が頷くのを確認して、東の方は清子に向き直った。
「姫や。心配は要りません。殿はようくご承知でいらっしゃいますからね」
「はい、母上」
 清子は素直に頷いた。
 しかし、優しい母の言葉も、心のもやを晴らすには至らなかった。
 権大納言家の『姫』である以上、同様のことはこれからもずっと続くだろう。それらをいったい何時までかわし続けられるだろう。
 いよいよとなったら、やはり尼になるしかないのだろうか──。




 もうひとつだけある選択肢に清子自身が気付くのは、今しばらく先のこととなる。




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