[ 九 恋歌 ]
「そなた、右大臣家の四の君は知っておるか」
帰宅するなり寝殿に呼ばれ、そこに両親が揃っていたのにも面食らったが、座して早々のこの問いかけにも当惑した。
「人伝えではございますが。たいそう、お美しい姫君だと伺っておりますが……?」
それが何か──と絢貴が問うより先に、母である西の方が切り出した。
「実はね。先ほどまで右大臣様がいらしておいでだったのです」
ひどく嬉しそうな西の方の口振りに、絢貴は首をかしげた。
「わたくしに御用がおありでだったと?」
尋ねると、父左大臣が大きくうなずいた。
「おおありじゃ」
「──そなたを、四の君の婿に迎えたいとのお申し入れだったのですよ」
さすがに驚いた。
「……わたくしを、婿に?」
しかし、その絢貴の驚愕は予想のうちだったらしく、両親は口を挟まず絢貴の様子をうかがっている。
「四の君と、でございますか」
「うむ」
「それで。ご承諾、なさったのですね?」
「うむ──」
あからさまに嬉しそうな西の方とは対照的に、左大臣の様子はどこか後ろめたそうである。
「──承りました。では、四の君に文をお出しせねばなりませんね」
ことさら難色を示すでなく、あっさり了承した絢貴に、両親が顔を見合わせた。
「絢貴。そなた……」
「はい?」
言いさしたものの、半ばで口ごもってしまった左大臣は、軽く咳払いして、念押しした。
「我が家にとって、これほどの良縁はまたとない。あえて固辞しようものなら、何ゆえと詮索する者も多かろう。引いては、事が露見せぬとも限らぬ。──これらを鑑みてのことと、分かってもらえようか」
「そのことでございますか」
絢貴は居住まいを正した。
「どうぞ御案じなさいますな。父上、母上」
にこりと笑み、
「世の方々も、よもや私のような者がおろうとは、夢にも思いますまい。右大臣様におかれましても、この申し出を疎んじれば御不審も招きましょうが、快諾した以上、その心配のあろうはずがございません」
「うむ」
「ただ、四の君には、まことに申し訳ないこととは存じますが……」
「よう、分かった。絢貴」
左大臣は、何とも潔い絢貴の態度に目元を潤ませた。
「そなたが聡明で何よりじゃ。まこと四の君にはすまぬとは思うが、背に腹は代えられぬ。精々、大事にしてやりなさい」
「はい」
うなずき、
「それでは。四の君への文をしたためて参りますゆえ、下がらせていただきます」
叩頭して、絢貴は立ち上がった。
早くも邸内には、どこかしら浮かれた空気が漂っている。
側仕えの女房もすべてさがらせ、自室に引き取るなり、絢貴は深く息を吐いた。
出仕した時から、いつかこんな日が来るとは覚悟していた。しかし。
(思った以上に、早かった)
もっと年長の者でさえ、妻帯していない者は多い。まだ数年の余裕はあると思っていたのだが。
しばらく茫然と文机の前に座していた絢貴だったが、やがて気を取り直して愛用の文具を取り出した。
あいにくと、これまで恋文など書いた覚えがない。
広晃の中将あたりに知れれば一笑に付されるか、呆れられるか──おそらく後者だと思われる──なにせ女の身で恋を仕掛けたとて、何の見返りもあるはずがない。
とは言え、かの中将のあまたの恋の聞き役、あるいは慰め役に徹するうちに、なんとなく、このようなものであろうとは察しがついた。
中将曰く、『恋の道は、見えぬ糸の先をたぐり寄せるようなものだ。手元まで寄せて見ぬ事には、その先にあるのが紅の衣か、はたまた縹の衣かも分かりはせぬ』と。
こちらから見えぬなら、あちらからも見えぬが道理。手繰った先に女の婿がいようとは、まさしく想像の外だろう。
(他人のことを、哀れんでいる場合ではないか……)
自嘲し、絢貴は筆を取り上げた。
小半時ほどして、再び姿を見せた絢貴のようすに、左大臣は首を傾げた。
「どうしたね」
「はい。──実のところ、わたくしはこれまで、恋文などしたためた覚えもございません。ですから、果たしてこのような文で良いのかと」
「ふむ。どれ、見せてごらん」
差し出された料紙を広げてみれば、墨色も鮮やかな歌が一首。
これやさは入りて繁きは道ならむ 山口しるく惑はるるかな
──これこそが、いったん踏み込めば辛い思いをすると聞く恋の道なのでしょう。わたくしは早くも行き先に惑い、山の麓の入り口で立ち尽くしております──
「なんの。これで不足があろうか」
横合いから紙面を覗き込んでいた母君も、嬉しそうにうなずいている。
「そうですとも、絢貴。申し分ないお歌ですよ」
「おふたりがそう仰られるのであれば。安心しました」
ほっとしたように笑む絢貴に、左大臣は目を細めた。
世の常でなく困難な道が、絢貴の前には伸びている。まさしく『繁き道』に違いない。
「絢貴」
ふいに改まった声で呼ばれて、絢貴も背筋を伸ばした。
「そなたのことだ。きっと、すべて上手く凌いでくれるものと信じている」
「はい」
「しかし、万が一、どうにも進退窮まったときには、必ずこの父に申すのだぞ。そなたが、大切な子であることは決して変わりないのだから」
「はい。御心、有難く頂戴申し上げまする」
絢貴は、深く頭を下げた。
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