[ 十弐 九月十五日 ]
九月十五日。宮中では観月の宴が催された。
その夜、絢貴は宿直だったため、右大臣邸には戻らず宿直所に向かったのだが、衣服をあらためても、名対面の刻限までにはしばらくあった。
(今宵は確か、宰相中将どのもご一緒だったか──)
いつもならば、そうした夜はほかの公達と他愛ない話に興じつつ過ごすのだが、どうした加減か、まだ誰も姿を見せない。
時間をもてあました絢貴は、酔い覚ましをかねて庭を散策することにした。
先ほどまでの宴の余韻を残して、どこかしら華やかな雰囲気に満ちている内裏ではあったが、珍しく誰とも行き会わない。
重陽の節句は終わったものの、いまだ大輪の菊が誇らしげに咲き競う庭の中は、清々しい香気に満ちていて、胸がすっとする。
そうしてひとり、夜の散策を楽しんでいた絢貴だったが、藤壺に差し掛かった辺りで、ようやく大勢のひとの気配を感じた。
さらさらと擦れ合う衣の音。先頭に立つ女童を目にして、それが梅壺女御のお渡りであることに気付く。
(主上の御寝所にお上がりになられるのか)
あからさまに御見申し上げてよいことでもないから、そのまま来た道を引き返したほうが良かったのだろうが──絢貴は、藤壺の塀のあたりに身を寄せて、一行が行き過ぎるのを見送ることにした。
月光のもと、女御の一行は粛々と進む。
香炉を捧げて先頭を歩む女童の装いは、濃い赤の袙にうすく透ける汗衫。きちんと整えた黒髪を垂らし、緊張したようすで歩む姿が可愛らしい。
続く女房たちもまた、艶を増した衣のうえに薄物の唐衣を羽織っているが、それがまるで薄く雲がかりした今宵の空のようで、たいそう美しい。
そうして女房たちが、その歩みにそって几帳を差しかざし、大切にお守りしているのが今宵の月のごとき女御そのひとでいらっしゃった。
かざされた几帳のために、そのお顔はもちろん、お姿を拝見することも出来はしない。けれど、そのしとやかな裾捌き、夜気に薫る香の匂い、それらすべてから何とお美しい方かと察せられる。
(──もし、私も、常の姫君のようであったなら)
絢貴は、ふと、我が身を顧みた。
(もし、このように奇矯ななりでなく、まっとうに姫として過ごしたなら──あれは、私の姿だった)
関白左大臣家の一の姫。裳着を終えれば誰はばかることなく入内し、あのように大切にかしずかれて、帝にお仕えしていたはずだった──本来であれば。
(まさしく正気の沙汰とは思われぬ。このように、衆目に顔をさらして、男のふりをして。何食わぬ顔で過ごしているのだ、私は)
思うほど、今の己れの生き様が常人とは異なることを痛感し、目の前が暗くなった。
月ならばかくてすままし雲の上を あはれいかなる契りなるらむ
──月のように澄んだ心で生い育った姫ならば、なんの憂いなく天上を照らしているだろうに。この私は、何の因果で地上(内裏)でこのように暮らしているのか──
(せめて、姫だけでも尋常なお育ちであれば良かった)
この世にふたりきりの兄妹。どうして、ともに世人と異なる道を歩んでしまったのだろう。
(私はもう、仕方がない。けれど、姫だけでも世の常のように宮仕え出来たなら、父君はどんなにかお心を慰められただろう。せめてひとりだけでも世の人々と同じと思えば、このような上り下りのお世話もしがいがあったろうに)
いっそこのまま誰も知らぬ深山に、見苦しい我が身を隠してしまおうか──そんな絢貴の思いをよそに、やがて一行は視界から遠ざかっていった。
目もあやな一行が通り過ぎた後では、美しく思えたはずの夜の庭も寒々しく見えた。
その時節であれば、見事な花房を垂らす藤の木も、今はただ、絡まり合う無骨な幹をむき出しにさらすばかり。
「……蘭恵苑の──」
つと口をついて出た詩歌が、あまりに今の心情に沿っていて。
自嘲の笑みを浮かべた絢貴は、藤の幹に背を預け、つぶやくようにその詩を吟じた。
蘭恵苑の嵐の紫を摧いて後
蓬莱洞の月の霜を照らす中
ほそく夜空に澄みのぼるような、その声音を聞きつけたのは、宰相中将であった。
こちらも今宵の役に絢貴も居ると知り、その姿を探していたのだが、いつもとは違う声の調子に、掛けようとした声を飲み込んだ。
冴え渡る月光の下、ひとり佇む絢貴は、何とも憂いに満ちていた。
美しい織物の直衣と指貫。紅の、艶がこぼれるような上着をわずかにゆるめて羽織っている。
もともと男にしては小柄で、本人もそれを気にするようすがあったのだが、そんなことはまったく些末事にしか思えない。なよやかに優美で、まさしく月の光に輝くばかりである。
どこかうち沈んでいるように思えたのは間違いではなく、涙に濡らしたらしい袖のあたりから、ふだん好んで焚きしめている香とは異なる、あえかにかぐわしい香りが漂ってくる。
(同じ男の私から見てさえ、これほど心惹かれるのだ。まして、このひとから声をかけられたら、気のない女人でさえその気になろう)
親友がこれでは、さしもの宰相中将も影が薄くなろうと言うもの。現に、あれほど恋い焦がれた四の君は、絢貴のものになってしまったのだから。
けれどその一方で、この美しい友人の最も近い位置に在ることが、誇らしくもある。
それにしても。
(この中納言が、憂いごととは──)
いつまでもその姿を眺めていたい気もしたが、やはり好奇心がまさった。
「絢貴どの」
今まさにその姿を探し当てたとばかりに宰相中将が姿を現すと、絢貴はすこし決まり悪げに笑んだ。
「宰相中将どの」
「今宵は同じ役と聞いて探していたのだが。何か悩みごとがおありか?」
万事にそつなく、人によってはよそよそしいと感じるほどに礼儀正しい絢貴だったが、この宰相中将に対してはいくぶん態度が柔らかくなる。
「お恥ずかしい。見られてしまいましたか」
すこし潤み加減の目元で微笑むようすは、愛らしいほどである。
「ひとりで悩まずに、どうか私にも力にならせておくれ。私とそなたの仲ではないか」
「それは有難うございます。けれど、大丈夫ですから」
「大丈夫などと。そのようには、とても見えないが」
疑わしげに宰相中将が問うと、
「いいえ、本当に。貴方のお悩みのほうが、よほど深くていらっしゃる」
「私の悩みとな。では、妹君とのこと、力になってくれる気になったのか?」
思わず勢い込むと、絢貴は苦笑した。
「いいえ、それとこれとはまた別のお話しです。何しろ、貴方のお気持ちと来た日には、月草のように移ろいやすいのが何とも気がかりで」
「そんなことはない。私の心は、ひとすじに」
「そうでしょうか? けれど、こればかりは私の一存では何とも。お伺いばかりして、何もして差し上げられないのが心苦しいのですが──」
口にすることは常のごとく、とりつくしまのない断りの言葉なのだが、先ほどまでの憂愁の気配を色濃く残した絢貴のようすは、何とも悩ましい。
(この万事に恵まれたひとが、何の憂いがあるというのか)
そのようすを見るつけ、宰相中将は不思議でならない。
(つねに慎ましく真面目であろうとするのも、心中深く悩みを抱えているせいなのか。早々に四の君に飽いたとも聞かぬ。あの美しいひとを前にして、まさかそんなこともなかろうが──もしや、東宮のあたりに思いを寄せてでもいるのか)
しかし、たとえ女東宮に懸想していたとしても、絢貴の身分からすれば過ぎた望みと言うわけでもない。
(それにしても──いつも明るいひとが、このような憂い顔をしていると、また格別に)
と、それは口に出さずに、色々と問いかけてみた。
「そなたは大丈夫と言うが、他人の目からすれば、また違う糸口がつかめるかも知れぬ。打ち明けてはくれぬか。そうすれば、私の身命に替えても解決してみせよう。──それとも、私などでは信頼できぬか?」
つれない態度が恨めしく、言いつのると、さすがに絢貴も答えようがないと見えて、
「私に成り代わって判断なされば、すぐにも解決してみせるとお思いですか?」
そのことと思ふならねど月見れば いつまでとのみものぞ悲しき
「なぜだか、思ってしまうのですよ。こうして月を見ていると──いつまで、こうしていられるのだろう、とね」
そう答える声も、愁いに満ちて趣深い。
そよやその常なるまじき世の中に かくのみものを思ひわぶらむ
「そうだな。確かに、無常な世だ」
おのれまでも悲しい気がしてきて、宰相中将は、つい涙ぐんでしまう。
「こうして世にあるのが、罪深いことだと思えてならないのです」
絢貴は笑う。ひっそりと。
「たとえば、貴方の悩みごとが片づいたならば、深山に身を隠そうか、などと。らちもないことを」
「その時は、ぜひ私も連れていっておくれ。私とて、その気持ちに覚えがないわけではない。ふとした折りに感じるわびしさは、年を重ねるにつれ勝る気がするが、さすがに思い切ることも難しいからね」
そのままいつまでも語り明かしたいほどではあったが、やがて名対面の時刻が迫ってきて、ふたりはその場で別れた。
それにしても、先ほどの絢貴のようす。まるで、女性さながらに優美で繊細な雰囲気は、男と分かっていても心が揺れそうだった。
(あれで真実、女であれば)
そう思うそばから、まさしく女性であるはずの清子姫のことが思い浮かぶ。
(私がこうまで思い悩んでいるというのに。薄情な男だ)
今のところ、清子姫を我がものとするには、兄である絢貴に恃むしかないのだが、やはり承知してくれるようすは微塵も見受けられない。
(少しでも同情するそぶりがあれば、強引にことを進められるのに。どうしたものか)
ひとり思案にくれる宰相中将であった。
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