[ 十参 兄と妹 ]







 宰相の中将と同じく、絢貴と四の君の婚姻に落胆した人物は、もうひとりいた。先の帝──朱雀院である。
 御位を退いた現在、院の心配事は、東宮にたてた愛娘、女一の宮のうえにあった。
 これと言った後見こうけんもなく、身近く仕える者といえば乳母くらいで、心もとないこと甚だしい。姫宮自身、自らの才覚で身辺を采配するにはいまだ幼く、院は常々その行く末を案じていた。
(誰ぞ、良い後見を)
 いずれはと考えていた絢貴は他家の婿に迎えられてしまった。またそれが右大臣家とあっては、おいそれと口を差し挟むわけにもいかない。
 そのこうするうちに、ふと、左大臣家の姫のことを思いだした。
(そう言えば、あの姫はどうしたのだったか)
 人伝えにようすを伺ってみれば、婿取りはおろか、内裏だいりにあがるようすもさらさらなく、ひっそりと毎日を過ごしているらしい。裳着の前に父大臣に見聞きしたようすと、まったく変わらぬ暮らしぶりのようだ。
(後見は、何も婚家でなくとも良い。左大臣家ならば、なんの不足があろう)
 そう思い、機会を待つことにした。




 九月の終わり、左大臣・藤原清成は、院の御所に参上した。
 季節の折々、都や宮中のようすを奏上などして会話も一段落したころ、さりげなく院が切り出された。
「中納言の妹御は、清子姫とやら申したか。今はどう過ごしておられる」
 問われた左大臣は、一気に顔色を失った。
(まさか。いまだ、お側に召すお気持ちがおありか!?)
 まさかまさかと思いつつ、返答はせねばならない。
「は、それが、何とも思案にあまっております。何しろ、親と見てさえ恥ずかしがるようすは変わらず、無理に顔を見ようとすれば、伏せってしまうありさまで。あれでは到底、人前にお出しするもならず。やはり、ゆくゆくは尼にさせるほかないのだろうかと」
 最初は言い訳だったものが、言葉にするほどに心底情けなくなってきて、御前であるにも関わらず、涙がにじんできた。
「申し訳ございませぬ。つい繰り言を──」
「いや。子を想うそなたの気持ち、よう、分かる」
 おや、と左大臣は首をひねった。
(もしや、杞憂であったか)
 その思いを裏付けるように、院が口を開いた。
「実はの。昌子のことなのだが」
「東宮さまが、如何なされましたか」
 どうやら、懸念していたのとは違うお話らしいと敏感に察し、左大臣は膝を進めた。
「そなたも知っての通り、あれはいまだ幼い。しかも、後見もしっかりしておらぬ。内裏にあっては私も目を配っていたが、今となってはそれもままならぬ」
「はい。心中、お察し申し上げます」
「そこで思い出したのが、そなたの娘御よ。聞くだに、尼になどさせるはいかにも惜しい。そなたも、そのようなことは望んでおらぬようだ。──のう、清成。そなたの娘を、東宮の後見にもらえぬか」
「東宮さまの」
 明らかに心を動かされたようすを見せた左大臣に、院は熱心に語りかけてくる。
「なに。後見とは申せ、女の身。まして、東宮とそなたの姫とは、年頃も同じほど。遊び相手に参内させれば良い。東宮には、そういった相手がおらぬゆえ気晴らしになろうし、そなたの娘御も」
 ぱちりと扇を鳴らし、院は笑む。
遁世とんせいしてしまっては如何ともしがたいが、俗世にあれば、良きこともあろう」
 良きこと、と左大臣は口の中で呟いた。
(主上や院にお仕えするのは無理であろうが、東宮であれば、さほど難しいことではないやも知れぬ)
 絢貴の元服の際も、さんざん気を揉んだ。しかし、今、あれほど立派に勤めを全うしているではないか。
(しかし、万が一、秘密が露見しては)
 押し黙ってしまった左大臣に、院が期待のこもった目を向けている。
 やがて、左大臣は口を開いた。
「なにぶん、急なお話のことで、心が定まりませぬ。一度、娘の母親とも相談致したく存じますので、ご返答は、また後日に」
「構わぬ」
 院は鷹揚にうなずいた。
「良い返事を、期待している」
「畏みまして」
 平伏し、左大臣は御所を退出した。




 自邸に戻った左大臣は、その足で東の対に向かった。
 絢貴の時と同じく、母である寧子に院からの申し出を伝えたが、当の奥方はただ、困惑するばかり。
「どう思う」
 意見を求めても、
「どうしたものでしょう。わたくしには、何とも……」
 明瞭な答えは一向に得られず、左大臣は嘆息した。
「我が子のことであろう。一番良い道を、探してやろうとは思わぬのか」
「むろん、思っております。ですが、何しろ、世の常の姫とは、あまりに違っておりますゆえ……」
「分かった。もう、良い」
 結局、途中で話を切り上げて寝殿に戻った左大臣は、まだ内裏にいるはずの絢貴に使いを出した。
 やがて、夕闇の降りる頃、絢貴が姿を見せた。
「父上。遅くなりまして申し訳ございません」
「おお、待ちかねたぞ、絢貴」
 内裏から直行してきたと見えて、絢貴の装いはまだ束帯のままだ。
「食事はまだか? では、とりあえず衣を改めておいで。話は、それからにしよう」
「はい」
 久方ぶりの実家に気も緩んだと見え、絢貴はにっこりと笑む。
 母の待つ西の対に一度引き取り、気楽な狩衣姿に着替えてから、再び寝殿に現れた。
「それで、父上。わたくしに相談事とは。何事でございます?」
「うむ」
 水を向けられて左大臣は、東の方に話したのと同じ内容を語った。
「院からのお申し出でございますか……」
「どう思う」
 東の方に投げかけたのと同じ問いに、絢貴は思慮深げに応えた。
「父上はどうお考えでございますか」
「私は、それも良いのではないかと思っている」
 左大臣は答えた。
「これが帝のお側に、というお話しならば、何としても断るところだがな。お申し出は院から、しかも、女東宮のお遊び相手と言うことならば、さほど大事あるまい。そなたの出仕始めの時も、さんざん気を揉んだが……案ずるより、生むがやすしと言うではないか」
 やや楽観的に過ぎると思わないでもないが、絢貴はうなずいた。
「よろしいのでは、ありませんか」
「そう思うか」
「はい。主上には、いまだ皇子はいらっしゃいませんが、姫宮はいらっしゃる。女東宮の御在位も、おそらく数年のことでしょう。そのくらいの間ならば、見識を広めるにやぶさかではございません」
「うむ」
「ただ、まずは姫の意志をお確かめください。どうしてもと仰る方を無理強いしても、良い結果を得られるとは思えません」
「そうしよう」
 頼もしい『息子』の言葉に、左大臣は思わず笑顔になる。
「父上?」
「いや。そなたも、一人前の口をきくようになったものだと思ってな」
「父上に比べれば、まだまだ未熟者でございます」
 嬉しそうに、けれど、どこか寂しさを交えた笑顔で答える絢貴に、左大臣は満足げにうなずいた。




 半刻後。左大臣は、絢貴を伴って再び東の対に足を運んだ。
 ざわざわと落ち着かぬ空気も道理で、絢貴がこの東の対に出向いたことは数えるほどしかない。しかも、それらはすべて子どもの頃のことで、元服してのちは絶えてなかった。理由は簡単、ふたりの奥方の密かな争いのせいだ。
 もっとも、結果は五分五分。しかし、絢貴のせいか、ややもすれば西の方に軍配が上がる。そう言ったわけで、特に古参の女房になるほど、相手方に対する敵愾心は強かった。
 宮中の花と呼ばれる貴公子といえど、所詮は女。どれほどのものぞ──と、東の女房たちの反感は根深いものであったはずだが、それも、絢貴が姿を見せるまでだった。
 年かさの女房から女童にいたるまで、直前までの反感も忘れ、ほぼ全員がこの若君にうっとりと見惚れる始末。宮中でのそう言った視線には慣れている絢貴も、いささかならず居心地が悪い。
「何やら落ち着かぬな。皆、下がっておれ」
 主人の下知に、名残惜しそうに女房たちが退出すると、絢貴は小さく吐息をついた。
「さて。これでようやく話が出来る」
 苦笑しつつ、左大臣は前方の御簾に向かって話しかけた。
「姫や」
 呼びかけると、御簾の向こうで身じろぐ気配がする。
「こうして、絢貴も連れて参ったのはほかでもない。そなたに、聞いてもらいたい話がある」
「……何事で、ございましょうか」
 ややあって流れ出た声音に、絢貴は耳を傾けた。
 どちらかといえば低めの、なめらかな声。
「院より、そなたにお申し出があった。東宮にお仕えしてはみぬか」
 はっと驚く気配が伝わってくる。
「現在の東宮は、知っての通り女人でいらっしゃる。確かな後見役もおられぬゆえ、そなたに頼みたいとのお言葉だ。実際にはお遊び相手にとのことだが。どうかね?」
 今度はさらに長い沈黙のあとに、返答があった。
「……わたくしなどに、そのような。大事なお役目が果たせるとは、思えませぬ」
「嫌かね」
「………」
 どこかためらうような気配に、絢貴は静かに語りかけた。
「姫、と呼ばせていただいてよろしいか。──もし、お嫌でなければ、出仕なさってみてはいかがです」
「………」
入内じゅだいとは異なります。たちまち事が露見するようなことにはなりますまい。ましてや、院のお声掛かりでのこと、滅多な御方にお会いすることもないでしょう。それでも不安と仰せならば、私が毎日参上いたしましょう」
「……兄上、とお呼びすればよろしいでしょうか?」
 呼びかけられて、絢貴は微笑んだ。
「そうですね。そのほうが、よろしいでしょう。世の方々には、あなたは私の妹姫ということになっておりますから」
「……それでは、兄上に、お尋ねしとうございます」
 さらさらと衣擦れの音がするたび、香しい匂いが漂う。
「わたくしが出仕せねば、お二方にご迷惑をおかけすることに、なりましょうか」
「いいえ」
 きっぱりと、絢貴はそれを否定した。
「あなたが並はずれて恥ずかしがりなことは、院もご承知のこと。もし、どうしてもお嫌ならば、何と理由を付けてもお断りするまで。──そうですね、父上?」
「むろん。無理強いするつもりは、毛頭ない」
 左大臣が間髪入れずにうなずく。絢貴もうなずいて、あらためて向き直った。
「けれど、先ほど父上の問いに、あなたはためらわれた。お嫌ではないのでしょう?」
「………」
「思い切って、外に出てご覧なさい。思いも掛けぬ道が、広がっているやも知れませぬ」
「……わたくしに、務まるとお思いですか」
「分かりません。けれど、邸に閉じこもったままでいても、何も変わらないことは確かです」
 またも、長い沈黙が降りた。
「姫や」
 左大臣が、口を開いた。
「今すぐ、返事をしろとは言わぬゆえ。ようく考えて、決めなさい」




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