[ 十四 尚侍出仕 ]
少し時間を置こうと言ったものの、よくよく考えれば、またとない機会である。幸い、今は奥方も席を外していることであるしと、左大臣は口を開いた。
「ふたりとも、こうして顔を合わせるのも久方ぶり──いや、もしかすると初めてではないのか?」
清子の姿は見えぬでも、傍らの絢貴は案の定、うなずいた。
「童子の頃に、鞠を追ってでしたか。庭に入ったことはございますが、母屋の中まで参ったのは、これが初めてかと」
そう言って御簾のほうを見やると、わずかに衣ずれの音がした。
「そうか。それは、詮無いことであった」
やはりそうだったかと、左大臣は軽く嘆息した。
「言うまでもないが、そなたらの他にもう子はおらぬ。ふたりきりの兄妹、これよりは互いを良き相談相手と思い定めて暮らすがよい。私も、いつまでこの世に永らえるやも知れぬのだから」
「父上。そのようにお気の弱いことを」
思わず腰を浮かせた絢貴を身振りで制し、左大臣は続けた。
「何も、今すぐの事とは言うておらぬ。しかし、こればかりは天の定むるところ。まして、そなたたちの悩みを、互い以上に知る者があろうか」
男として生きる娘。女として生きる息子。どちらも、世をはばかるには充分な身の上である。
「赤の他人に相談するより、血を分けた兄妹以上に心強いものなどなかろうよ。母たちの思惑など気にせず、折々にこちらにも足を向けなさい」
父の言葉に、絢貴はあらためて御簾の向こうを見やった。清子もまた、こちらを見ているようだった。
「──おいやでなければ、是非にも参上致しましょう」
「──どうぞ、おいでくださいまし」
ほとんど同時に、ふたりの口から言葉が飛び出た。
「うむ。仲良う、いたせ」
満足げに左大臣は笑んだ。
それから後、絢貴は足繁く東の対に足を運んだ。出仕について、清子から相談を持ちかけられたからだ。
「東宮さまに、拝謁されたことはおありですか」
「どのような御方でいらっしゃいますか」
「後宮の御方々は」
清子の疑問と不安に、絢貴は知る限りを丁寧に答えた。知らぬ事は、いったん預かって帰り、明くる日、文にしたためるか、自ら訪れて答えた。
清子は、その絢貴の誠実さと博識に驚いたし、絢貴は清子の飲み込みの良さに驚いた。
そうして、十月の半ば。
「父上。姫が、出仕致すと」
絢貴を通じて、左大臣に清子の決意が伝えられた。
「さようか。さぞ、院もお喜びになられよう」
無理強いはせぬとは言ったものの、やはり院のお申し出を断るのは苦しい。清子が決断してくれたのは、嬉しい限りだった。
「さっそく院にお返事致さねばな」
言葉通り、すぐさま朱雀院に奏上申し上げたところ、やはり院も相当に喜ばれたらしい。同じことなら早くと、明くる十一月の十日に、出仕が決まった。
常の入内と異なるが、仮にも左大臣家の姫君の出仕である。準備万端、手抜かりなく整えられたは、女房が四十人、女童や下仕えが八人。また、何の名目もなしでお仕えするのも変なので、尚侍の職をいただいて参上することになった。
東宮が梨壺においでなので、尚侍の私室はすぐそばの宣耀殿と定められた。
その日、梨壺はいつにないざわめきに満ちていた。
「ねえ、宣旨。尚侍は、もう宣耀殿にいらっしゃったかしら」
「まあ、宮さま。そのようにお急かしになられるものではございませんよ」
問いかける東宮をやんわりとたしなめつつ、宣旨は嘆息した。
無理もないとはいえ、朝からずっと東宮はこの調子で、何も手に付かない状態なのである。
尚侍の参内は正午。東宮の御座所であるこの梨壺に伺候するのは、さらにその後。まだ、一刻以上もあるというのに。
宣旨は、東宮の亡き母后の乳母子にあたる。それこそ、東宮の生まれる以前よりお仕えしているが、これほど落ち着きのない東宮を拝見したことは、かつて覚えがない。
そういう宣旨自身、対面の時刻が近づくにつれ、何とも身の置き所のない心地がする。
(左大臣家の姫君。あまりに人見知りが激しくて、それこそ父君ともろくにお話しできない内気ぶりと聞くけれど──いったいどんな方だろう)
身分から言えば、むろん、東宮のほうが遥かに尊い。しかし、実家の権勢を考えれば、到底むげには出来ない。まして、これから東宮の後見を務めてもらわねばならない相手である。
(あの中納言どのの妹君だもの。さぞやお美しいに違いないけれど)
美貌をかさにきた、鼻持ちならない姫君だったらどうしたものか──と、不安でいてもたってもいられない気がするのだ。
一の女房の宣旨までがそんな具合だから、他の女房やら女童に至っては、手元足元のおぼつかないこと、おびただしい。
「ねえ、宣旨」
「はい、何でございましょう?」
「尚侍は、わたくしよりもお年上でいらっしゃるのよね?」
「ええ。確か、ふたつばかり年長でいらしたと伺っておりますよ」
「わたくし、お姉さまがいらっしゃればいいのにと、ずっと思っていたの。お兄さまは、お優しいけれど、いつもお忙しくていらっしゃったでしょう」
「宮さま。お兄さまではなく、主上と」
たしなめつつも、宣旨はその微笑ましさに祈るような気分だった。
(どうか、ご気性の真っ直ぐな、お優しい姫君であられますように──)
やがて対面の刻がやってきた。
大勢の前でのご挨拶はご遠慮申し上げたい、との申し出を受入れ、東宮と宣旨、そして尚侍の三名のみでの対面となった。
「新尚侍、ですね? どうぞ顔を上げてちょうだい」
ゆるゆると顔を上げる動作につれて、見事な黒髪が装束の上をすべり落ちる。
この日の尚侍は、東宮の御前に伺候するため、日頃は着ることのない今様色の重ね、裳唐衣を身にまとい、その艶やかなようすはたとえようもない。
「東宮さまには、お初にお目もじ申し上げます──清子と申します」
口上を述べながらもやはり恥ずかしいのか、どことなく伏し目がちの、ほのかに朱の差した頬や目元は、同性ながらどきりとするほど美しい。
「まあ。本当に、お話しに聞いたとおりの方ね」
目に絢なそのたたずまいに、東宮は手を拍ちあわせんばかりに喜んだ。
「来ていただけて、本当に嬉しいわ。どうぞ、ここをご実家と思ってくつろいでちょうだいね。何か行き届かないことがあれば、この宣旨に」
東宮のそばに控えた宣旨が頭を下げる。
それに軽く会釈を返し、
「一通りのことは、実家で兄に教わって参りました。けれど、さぞ至らぬ点も多くありましょう。ぜひ、何なりと教えてくださいませ、宣旨どの」
至極丁寧な申し出に、感極まった宣旨は平伏した。
「勿体のうございます。わたくし如きが申し上げるは憚りながら、何とぞ、宮さまをよろしうお願い申し上げまする」
「能うる限り、務めさせていただきます」
静かな意志を感じさせる声音が、穏やかに請け負った。
「──ねえ、固いお話しは、もうそれくらいにしましょう。尚侍、もっとこちらへ来て。主上に珍しい絵巻物をいただいたの。一緒に見ましょう」
「まあ、宮さま」
とたんに呆れ顔になった宣旨に、東宮は拗ねてみせた。
「構わないでしょう? 今日は尚侍がいらっしゃるから、博士にもお休みをいただいたのだし」
先ほどまでの威厳はどこへやら、とたんに年相応の素顔を見せる東宮に、宣旨は渋い顔になる。
「ご講義はお休みでも、手習いのお約束はどうなさいました? 今日こそは、ちゃんとなさると仰ったではありませんか」
「だって、尚侍がいらっしゃるまではと思って、ずっと見ないでおいたのだもの──」
「いけません。お約束は、お約束でございます」
「──それでは、こう、致しませんか」
ふいに主従の間に割って入った声音に、ふたりは振り向いた。
「東宮さま。まずは。お約束を果たされませ。わたくしも、手習いをご一緒いたしましょう」
「本当に?」
ぱっと東宮の顔が明るくなる。
「はい。お約束を果たされてからならば、お時間はいくらでも。わたくしも、実家から持って参った絵巻物などございますゆえ。そちらも御覧くださりませ」
東宮は、ますます嬉しそうになった。何しろ左大臣家の姫君の持ち物だ。下手な皇族の姫のものより、よほど見事な品のはずである。
「宣旨。それならば良いでしょう?」
にこにこと尋ねる東宮に、顔だけはしかめつらしく宣旨はうなずいた。
「よろしゅうございます。では、さっそくご用意を」
戻 る 進 む
(C)copyright 2003 Hashiro All Right Reserved.