[ 十五 麗景殿の女 ]







 その年の五節ごせち──十一月の中卯の日、恒例の中和院正殿への行幸みゆきがあり、公卿ら参列する人々は皆、小忌衣おみごろもをまとってお供に参じた。
 小忌衣は、白麻に山藍で花鳥をった衣のことであるが、その清々しい色合いに加え、左肩に垂らした二条の赤紐がほどよい彩りを添え、一見して爽やかな風情である。
 しかし、同じ衣装であればあるほど、着る人によっては、いっそう姿が際立ってみえるものである。なかでも、宰相中将と中納言の姿は、とりわけ人々の目を楽しませた。
 宰相中将はその長身を生かしてすっきりと着こなしつつ、男の色気とも言うべき風情を醸し出している。
 対する絢貴の中納言は、こちらはずいぶんと小柄ではあるものの、その着こなしの上品さは誰とも比べようもなく、相変わらずの容貌の冴えといい、ちょっとした仕草や目つきなども、いつまでも見ていたいほどの華やかさである。
「ご覧なさいまし。あれに、中納言さまが」
「ああ、ほんとうに」
 周囲には、見物に出た公卿や女房らが鈴なりになっている。特に女房らは、少しでもこのふたりを目にしようと躍起になっていたが、その熱い視線に振り返るのは必ず宰相中将だった。
「やあ。久しぶりにお見受けするね」
「今日の衣は、一段と貴女に映える」
「なんて芳しい香だろう。どうか私に手ほどきしてはもらえまいか?」
 ──等々。少しでも見目良い女性がいると、まめまめしく立ち止まり、声なども掛けてゆく。鮮やかに現れ、華やかに立ち去っていくのだ。
 そんな宰相中将に、まったく同調するようすもなく、絢貴は粛々と中院を目指す。
 わずか数瞬の間に通り過ぎる横顔を想い、その背を見送って、数多の女房がため息をつくのだった。
「──まったく、そなたと来たら。四の君一筋なのは結構だが、たまには羽目を外してはどうだ?」
 やがて列に戻ってきた宰相中将に呆れ顔で諭されて、絢貴は苦笑した。
「どうとでもおっしゃいなさい。わたしには、貴方のように華やかな恋はできませんよ」
「もったいない。そなたさえその気になれば、どんな美女も望みのままだというのに」
 心底そう思っているらしい口振りに、絢貴の笑みは深くなる。
「わたしには、妻がおりますから」
「まったく。とんだ誤算だな──」
 何をして誤算というのか、絢貴はあえて問い質さなかった。




 中納言が内裏にある間、その身辺には常に六人の随身が、つかず離れず控えている。
その随身の中でも、最も年若のひとりが少しく遅れてやってきて、もの言いたげに絢貴の様子を窺っていたので、折りを見て何事かと問うてみた。
「実は、麗景殿の細殿の、一の口のあたりで女房どのに差し招かれまして。中納言さまに、こちらをお渡し申し上げるようにと」
 そう言いながら随身が差し出したのは、みるからに趣味の良い文。
「さて。覚えがないが──」
 そう呟きつつも広げてみれば、

 逢ふことはなべてかたきの摺衣すりごろも かりそめに見るぞ静心しづごころなき

 ──お目に掛かるも難しいと思っていた貴方を、思いがけなくお見かけして、私はすっかり心を乱してしまいました──
 
 その見事な筆跡に感心したが、やはり覚えのない相手だった。
(どちらの御方だろう)
 少なからず興味を覚えたが、今は儀式の最中である。文を受け取るにとどめ、返事はしなかった。




 五節のなかでも最も華やかな豊明節会とよのあかりのせちえを明日に控え、内裏の中もいつまでもざわめいていた。
 清子が出仕して以来、参内した時は必ず宣耀殿にも立ち寄るのが習慣になっている。
 その夜も、行事が終わった後にご機嫌伺いに参上し、ひとしきりを過ごした。退出したのは、ようやくあたりも静まりかえった夜分のことである。
 右大臣家に戻ろうとしたその足が、ふと止まる。

 ──宣耀殿の南には、麗景殿がある。




 月の明るい夜、麗景殿の細殿あたりをそぞろ歩きながら、絢貴は口ずさむ。


 逢ふことはまだ遠山の摺り目にも 静心なく見ける誰なり

 ──お会いするのは、まだずいぶんと先のことにもなりましょうが、心を乱されたと仰る御方は、いったいどなたでしょう──


 しかし、それに応えるひとの気配はない。
(誰もおらぬのだろうか)
 そう思っていると、随身が文を託されたという一の口から、ほそい声がした。


 めづらしと見つる心はまがはねど 何ならぬ身の名乗りをばせじ

 ──素晴らしい貴方と思う心に嘘はありませんが、何ほどもない身の上のわたくしですから、名を申し上げようとは思いません──


 楚々としたその風情に、絢貴はいたく好感を覚えた。


 名乗らずは誰と知りてか朝倉や この世のままも契り交さむ

 ──お名を存じ上げなければ、貴女をどこのどなたと知り得ましょうか。この世にあるうちは、契りを交わすこともできないのですよ──


「『かたきの摺衣』のそのわけは、貴女がお名乗り下さらぬせいだったのですね──」
 言葉遊びのように語りかけながら建物の側に近寄ると、恥じらいながらもその場を離れられない相手の気配、いじらしさが感じられ、「何とも慕わしい方だ」と、まるで男のような感情さえ湧き上がってくる。
(私が、宰相中将のようだったら──いや、本当に男だったなら)
 こんなに素晴らしい相手ならば、すぐにもかき口説いて我がものとしただろう。
 だが、絢貴は女である。




(私の、この心持ちはどうしたことだ)
 女と言葉を交わすたび、胸のうちをあたたかく満たすものは。
 一介の女房などでないことは、話すうちにそれと知れた。おそらくは、この麗景殿の女主人の妹姫でもあろうか。
 そのような高貴の姫君を相手に、無体な振る舞いなど出来ようはずもないが、そもそもが絢貴に為せることでもない。
(不思議は、我が身か。我が、心の内か)
 秘めやかな語らいも、やがて近づいてくる他人の気配に終わりを告げる。
「いずれ、また」
 後日を約したのは、絢貴のほう。
 女からの応えは、なかった。




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