[ 十六 初春 ]
年は改まって、正月一日。
霞がかった空はまさしく春と見えながら、過ぎた冬を惜しんでか、名残の雪が降るようすは、風情もあり、めでたくもあり。
新年の行事を滞りなく終えた左大臣清成卿は、尚侍の住む宣耀殿へと足を向けたのだが──。
「おお、絢貴。そなたも来ておったか」
「はい、父上」
上座を父に譲るべく立ち上がった絢貴は、にこりと笑んだ。
初春らしく、宣耀殿の中は華やかな彩りに満ちている。
居並ぶ女房らの装いは、梅の五つ重ねのうえに紅梅の織物の唐衣、あるいは萌黄の三つ重ねも鮮やかに群れ居、春の野のようすさながらである。
その女たちの中にある絢貴の姿は、紫の織物の指貫、深い紅の、艶が光とこぼれんばかりを出衣にし、ただ背を正して座しているだけで、ひとり鮮やかに浮き立って見えるほど。
几帳の向こうをすかし見れば、こちらには尚侍が、匂い紅梅の衣のうえに濃い掻練襲、一番上には桜色の織物の小袿。手には表は紅、裏は蘇芳の紅梅襲の扇をかざし、恥ずかしげにしている横顔は、絢貴と見分けがつかないほど良く似ているが、明るく華やかな絢貴に比べて、こちらはしっとりと優美さが際だつ。
御髪は、乱れなくつややかに流れ落ち、ゆったりとひろがって、背丈より二尺ほどあまった毛先が白い衣に鮮やかに浮き立って見えるようすなど、まさに絵に描いたような美しさ。
「父上。あらためまして、初春のお慶びを申し上げまする」
居住まいを正した絢貴にならい、清子も、居並ぶ女房、女童も、一斉に頭を垂れる。そのようすがまた、春風に吹かれる花々さながらで、目に楽しいことこのうえない。
「うむ。そなたらも、健やかで何よりじゃ。それにしても、いつの間に、このように親しくなったのやら」
「何を仰られますやら、父上」
可笑しそうに絢貴が応える。
「仲良ういたせと、そう仰られたのは父上でございましょう」
「それは確かに申したが。いや、誤解してくれるな、何も悪いと申しておるのではないぞ」
「確かに、姫がまだ里においでの頃には、御簾越しでお話ししておりましたが」
几帳の向こうに目をやると、尚侍の扇が揺れた。
「出仕なされてからより、段々と」
「──わたくしも、なんと世に疎々しく過ごしておりましたかと、身に沁みまして」
几帳越しに涼やかな声がしたが、その声の張りに左大臣は目を丸くした。
「なんとまあ、嬉しいことよ。そなたのそのような声、今ここで聞こうとは思わなんだわ」
几帳越しに目を見交わして、兄妹はそっと笑い合う。
「どうにか、つつがなく過ごしております。どうかご案じなさいませぬよう」
「うむ──」
うなずいた左大臣だったが、胸中はなんとも複雑なものがあった。
その父の葛藤を、誰より痛切に感じていたのは、やはり当の兄妹だったろう。
やがて日は暮れ、眩しいほどに明るい月が昇る。
「良い月夜じゃ。姫や、久方ぶりにそなたの琴を聞かせてはくれぬか。絢貴、そなたの笛もじゃ」
父の望みに応じて、絢貴が横笛を口にあてる。いつもながら澄んだ美しい音色が、遥か雲井を分けて夜空に立ちのぼらんばかりに響き渡ると、左大臣も女房らも、胸がふるえて涙がにじむほど。
そこへ、尚侍の爪弾く箏の琴が、劣らぬ素晴らしい音色を奏でて合わさっていくと、言葉も出ないほどである。
その音色を耳にしたのは、宣耀殿の人々だけではなかった。
「何と、まあ──」
新年の装いにあらためた宰相中将は、耳に届く笛の音と琴の音色に、感嘆の声を上げた。
(あの笛の音は、絢貴どの。では、箏の琴は尚侍に違いない。どちらも何とも素晴らしい──この世のものとも思えぬ。あれほどの才を持つものは、顔も姿もさぞ良く似通っているのだろう)
ちょうど良く聞きつけたのは他でもない、尚侍が出仕して以来、ことあるごとに宣耀殿の辺りに足を向けていたおかげである。いつもは、その気配を感じ取れるだけで良しとしていたのだが──今日という今日は、我慢できそうにもなかった。
東屋の 真屋のあまりの その雨そそき
我立ち濡れぬ 殿戸開かせ
吟じつつ、反り橋のあたりに近づいてゆくと、気付いてくれたらしい絢貴が、笛を琵琶に取り替え、
かすがひも 錠もあらばこそ その殿戸 我鎖さめ
おし開いて来ませ 我や人妻
と、何とも嬉しい答えが返ってきた。
(これは、もしや、とうとう橋渡しする気になってくれたのか!?)
今まで何の音沙汰もなかっただけに、期待はいや増し、宰相中将はいそいそと階の下まで進んだ。
が。
「宰相中将どのか」
「……あ。左大臣さま──」
何とも気むずかしげな──というより、明らかに機嫌の悪そうな左大臣が、みずから端近にまで姿を見せ、宰相中将はあわてて雪のうえに膝をついた。
「良い。こちらに上がられよ」
おそれ多くも左大臣その人に導かれて廂の間にまで入れば、尚侍と思しき方は十重二十重の几帳の陰にすでに隠れ、衣装の端すら見えそうにない。
期待がしおしおと萎んでいき、宰相中将は周りにそれと知られないよう、落胆のため息をついた。
恨めしく思って視線を絢貴に送ると、可笑しそうな、申し訳なさそうな微笑みが返ってくる。
ちょうど、他の殿上人や上達部なども、左大臣の居所を探し当てて次々に新年の挨拶に訪れ始め、宣耀殿はいっそう賑やかしさを増した。
「──かえって、お気の毒をしてしまいましたか。中将どの」
そばにやってきた絢貴に笑い含みで問われて、宰相中将は、子どものように拗ねて見せた──もちろん、尚侍には見えないように。
「お恨みするぞ、絢貴どの。やっと、私の気持ちが通じたかと期待しておったに──」
「それは申し訳ございませんでした」
詫びのつもりか、みずから酌をしようとする絢貴から盃を受けて、宰相中将は一息で干した。
一部始終を見ていた女房たちも、宰相中将の想い人が誰かは先刻承知である。それだけに、くすくすと忍び笑うようすがあちこちに見受けられるのが、何とも気恥ずかしい。ただ、嘲る気配は誰にもなく、好意的なものであるのが幸いだった。
女房たちにしてみれば、宮中で一、二を争う貴公子が、主を望んでいるという誇らしさ、また、宰相中将そのひとの男ぶりを慕わしく思うものも多いのだ。
互いに盃を酌み交わし、やがて絢貴が琵琶をすすめた。
「どうです、あなたの琵琶もお聞かせくださいませんか」
「いや、今日のところはやめておこう。酔いがすぎたようだ」
「何を仰る。さほど飲んではおられませんでしょうに」
「こちらにお伺いする前に、他所でも少し、な」
「さようでしたか。では、無理には申しますまい」
納得して、あっさり引き下がった絢貴に、宰相中将は、内心胸をなで下ろしていた。
絢貴の笛はよく耳にするから、その腕前のほども知っている。だが、先ほどの琵琶、あれも近年まれにみるほど素晴らしい音色だった。
(一に秀でる者は、二も三も秀でるものか。これほど万事に優れた兄を見馴れていては、私の琵琶の音など、お耳にも入るまい──)
宰相中将の不幸は、これほど優れた兄を持つ姫君を意中の方としてしまったことのようである。
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