[ 十七 憂う月 ]
春の夜のつれづれ。宰相中将は、珍しくも自邸でひとり、盃を重ねていた。
尚侍が出仕なさってからというもの、たびたび宣耀殿のあたりに足を向けたが、あちらはいつもひそりと静まりかえっていて、時折、忍びやかな箏の琴を耳にするばかり。こちらを気にする素振りなど、かけらもない。
加えて、正月の頃のあのようす。左大臣が自分を婿がねとして望んでもいないことを思い知らされ、さしもの宰相中将も気落ちしてしまった。
だが、高嶺の花と思い切るには、あまりにも口惜しい。
(だいたい、絢貴どのが薄情すぎる)
なぜ、ああまで頑なに橋渡しを拒むのだろう。いくら妹大事とはいえ、いつまでも独り身のままで居させるわけにもいかないだろうに。
まさか、本当に尼にさせるつもりではと懸念した頃もあったが、今はそれはないと思い直した。そのつもりなら、そもそも出仕などさせないだろう。
なにより。
人並みはずれた内気ゆえ、人前にはとても出せないと、口癖のように絢貴は言っていた。ところがどうだ。今や尚侍として、立派に宮仕えを果たされておられるではないか。
今はまだ、世間というものに居竦んでおられるやも知れないが、いずれは慣れる。ならば、その手助けを自分こそがして差し上げたい──そう、思うのだが。
やはり、絢貴に愚痴のひとつも聞き届けてもらわねば、気が済まなくなってきた宰相中将である。
明日になれば、内裏で会える。しかし。
「──誰か、ある。右大臣邸に参る。支度せよ」
どうにも今すぐに会いたくなり、宰相中将は立ち上がった。
絢貴のもとを訪れることは、珍しいことではない。むしろ、頻繁と言って良い。親友と言ってはばかりない間柄だから、特におかしいことでもないと思うが、あまりにしょっちゅうなので、さすがに宰相中将も思うところがあった。
だが、会いたいものは仕方がない。せめてもと、なるべく控えめに、前触れなども最小限にして右大臣邸にやってきた。
ところが。
「申し訳ございません。中納言さまは今宵、宿直の任にあたられておりまして。つい先ほど御参内なされました」
顔馴染みの家司が慇懃に頭を下げるのに、宰相中将は落胆した。
(せっかく出掛けて来たというのに、無駄足だったとは。ええい、いっそ、私も参内するか)
その気落ちぶりに気の毒になったのだろう。初老の家司が、
「もし、中将さま。お急ぎの御用なれば、しばしこちらにお留まりになっては。御文なりと、中納言さまにお使い申し上げましょう」
ありがたい申し出に、宰相中将は笑んだ。
「すまぬな。しかし──」
断りの言葉を口に仕掛けた宰相中将は、ふと、口をつぐんだ。
かすかにではあるが、邸内の奥から箏の琴が聞こえてくる。
(これは。もしや……四の君ではあるまいか)
にわかに、胸の内がざわめいた。
今宵は、月が明るい。
琴の音を追い、苦心して右大臣邸の奥深くまで入り込んだ宰相中将は、甲斐あって、やがて目当ての場所と思しきところまで、たどり着いた。
はたしてそこには、思いのほかの端近で、琴をつま弾く佳人の姿があった。
高く巻き上げた御簾は、余人が入り込むはずはないと安心してのことだろう。
重ねた衣がそのままの形をとどめているような、小柄でなよやかな体つき。どこか物憂げに箏の琴を弾くその横顔は、優艶に美しい。
かの尚侍の評判は高い。だがそれは、うりふたつと言われる兄、絢貴を目前にしてこそ。実際にその美貌を目にした男はない。
それに比べて、今、目に映るこのひとの美しさと言ったら──。
(美しい方とは、聞いていた。しかし、よもや、これほどとは……)
目の当たりにした四の君の美しさに、宰相中将はすっかり魅せられてしまった。やがて、心のうちから、この佳人が親友の妻であるという事実を追い出してしまうほどに。
そんな男が身近に隠れているとはつゆ知らず、四の君──薫子は、我知らず深い吐息をもらしていた。
つい先ほどまで、数多くそばに詰めていた女房たちも、局に下がるか、あるいは、月と花とに誘われて庭遊びに出掛けたか。いまは、ほんのわずかな人数を残すばかり。
弾き続けていた手をやすめ、高くのぼった月をつくづく眺めるにつけ、いっそう物思いはひどくなる。
春の夜も 見る我からの月なれば 心尽くしの影となりけり
──これほどに美しい春の夜、月の光であっても、それは見るひとの心持ち次第。悩み尽きぬ私の目から見れば、どれほど美しい月であろうと、もの哀しく見えることよ──
箏の琴に寄り掛かり、そっと吟じて指の先で琴の弦をもてあそぶ。その物思わしげな風情が、忍ぶ男に最後のひと押しを与えてしまったとは気付かぬままに。
妻戸の開く音がした。
迷いのないその足取りは、女のものではない。だが、そんなふうに此処にやってくるひとは、ひとりしかいない。
わずかに御前に残っていた女房たちも「おや、中納言さまが帰っていらしたのかしら」と不思議には思ったものの、まったく疑わなかった。
そして、薫子も疑いもしなかった。その耳もとに、男がそっと囁くまでは。
忘られぬ心や月に通ふらむ 心尽くしの影と見けるは
──私のこの身を離れぬ想いが月に通じたのでしょう。貴女の目にも、この月が憂いの月と見えるならば──
「──どうか、貴女を想い続けた私の心を、お受け止めいただきたい」
知らない声──知らない気配。
焚きしめた香も、慣れ親しんだ絢貴のものでは、決してなく。
怯えた薫子は、とっさに袖に顔を押しつけるようにした。だが男は、有無を言わせぬ力で薫子を抱き上げ、御帳台の中へと連れて入った。
戻 る 進 む
(C)copyright 2004 Hashiro All Right Reserved.