[ 十八 密か事 ]
いち早く異変に気付いたのは、乳母子の左衛門だった。
若夫婦がやすんでいるはずの御帳台から、怯えた声が上がったような。
(姫さま?)
不審に思って側近くに寄れば、やはり声がする。──しかも、女のすすり泣く声が。
ぎょっとした。よくよく耳を澄ませれば、しきりとかき口説く男の声もする。だがそれは、中納言の声では、なかった。
「そのようにお嘆きなさいますな、愛しい方。かつて、貴女は私を冷たくお見捨てになられた。私も、貴女への想いを断ち切ろうとしましたが、やはり忘れることなど出来ませんでした。それが、今宵こうしてお逢いできたのこそ、宿世の縁と申すもの。まして、こうして契りを交わした以上は、貴女がどう思われようと、この手を離すことなど及びもつきません。どうぞ、今はお心を鎮めて」
やさしく腕に抱かれ、言葉を尽くしてなだめられても、四の君の受けた衝撃がおいそれと和らぐはずもない。
かたくなに泣き沈むようすを、だが男はいっそう愛しいものと受けとめたようだ。
(なんということ。若殿がお帰りになられたとばかり思っていたものを。──まさか、宰相中将さまでいらしたとは)
声からそれと察した左衛門は呆れかえったが、気付くのが遅すぎた。今となってはどうしようもない。
せめても他の女房たちには知られまいと、とっさに周囲に声を掛けた。
「姫さまは、もうおやすみになられたようですわ。私が御前に控えておりますから、みなさまはどうぞ、月や花をご覧になって楽しまれませ」
左衛門のすすめに、若い侍女たちなどはいそいそと立ち上がり、「せっかくならば、ものの憐れをご存知の御方とご一緒したいものだわ」などと笑いさざめきながら、遊びに出て行った。
人の気配が遠のくを待って、御帳台の中にもそっと声を掛けた。
「もし。明るくなってからでは、人目にもたちましょう。ほかの者は遠ざけましたゆえ、ただ今のうちにおでましくださりませ」
ところが、宰相中将は動く気配もない。
「もし、中将さま。どうぞお聞き入れくださりませ」
「聞こえている」
腕の中に四の君を囲いながら、宰相中将はうそぶいた。
「だが、月がこんなに明るくては、かえって人目にたつやも知れぬ」
「ですが」
「月が隠れたら、教えておくれ。それまでは」
左衛門は唇を噛んだ。確かに今夜はいつになく月が明るい。今はともかく、他の女房たちが何かの拍子に戻ってこないとも限らない。
「では、月が隠れましたら、すぐにお知らせ申し上げますゆえ」
「ああ、頼んだよ」
実に気安い口調で宰相中将は答え、愛しいひとの髪を撫でた。
「──中将さま。はや東の空が白んで参りました。後生ですから、今宵はこれまでと思し召して、早うお出まし下さりませ」
暁闇。幾度となく左衛門に急かされても、のらりくらりとはぐらかしていた宰相中将も、さすがに重い腰を上げざるをえない。
「愛しい方。まだ、そのように頑なでいらっしゃるのですか。私に、ひとかけらでも情けをかけてはいただけませぬか」
わがためにえに深ければ三瀬川 後の逢ふ瀬も誰かたづねむ
そう歌うと、四の君の背が目に見えて強ばった。
「もはや私以外の男が、貴女を背負って渡ることもないのですよ。それに免じてどうか、一言だけでもお約束をください。たった一言でよいのです」
傍らから覗き込むようにされて、四の君は体を縮めるばかり。
「お答え、いただけませぬか。──とても、残念です」
ほうと深いため息をついた宰相中将だったが、それ以上は無理強いしなかった。
「また、近いうちに参ります。どうかそれまで、貴女に恋い焦がれた、この哀れな男のことをお忘れくださいますな。なにとぞ──」
「中将さま──お早う」
せめてもと残した言葉も、左衛門の急かす声に掻き消されがちである。
こちらを見ようともしない四の君を、最後に一度だけ強く抱きしめてから、宰相中将は立ち上がった。
まるで夢のようだった。
帰りの牛車の中で。自邸にたどり着いたあとで。宰相中将は、今しがたの逢瀬を思い返しては、喜びを噛みしめていた。
まったく何という幸運。一度は諦めたひとを、今になって我がものにできようとは──。
同時に、不思議で仕方なかった。
(いったいなぜ。絢貴どのは、あの方を妻にしておられなかったのだ)
あれほど、誰はばかることなく妻を大事にし、慈しんでいるようすだったのに。まさか、いまだに閨を同じくしていなかったとは。
(生真面目なのは、妻ひとすじだからとばかり思っていたが、違ったのか)
(見た目にも清廉な男とは思っていたが、心根も聖のごとしか)
疑問は次々にわき上がるが、こればかりは当人に確かめるわけにもいかないだろう。
まさしく、悪い夢のようだった。
他の女房たちが起きてこないうちにと、左衛門が御帳台の中を片づけていく間も、乱れた衣をあらため、髪をくしけずり、肌身をぬぐう間も。
ようやく整えられた寝所に横たわったあとも、薫子はただ、茫然としていた。
男とは──夫とは、ただのどやかに、恥じらいつつも親密に語り合うだけの存在だった。
それが、どうだろう。
親密さのかわりに、恐れを。穏やかさの代わりに、この世のものとも思えぬ羞恥を。
鉄のような腕に捕らわれ、抜け出すこともかなわず翻弄され、気付いた時には、すべてが終わっていた。
(──貴女のことが、ずっと忘れられなかった)
どれほどあらがっても、決して離してはもらえずに、繰り返し囁かれた。
(今、このひとときだけでも、貴女は私のものだ)
どこか苦しげなようすで、何度も、何度も。
──絢貴に、このことが露見したならば。
ふるえの止まらない我が身を抱きしめ、薫子はただ、涙し続けた。
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