[ 十九 左衛門の決意 ]







 朝ぼらけの中、身支度を調えた女房たちが、次々に伺候してくる。
「おはようございます、姫さま」
「お目覚めでございますか」
 格子こうしを上げ、手水ちょうずの用意をととのえた後で、やんわりと御帳台みちょうだいの中に声をかける。だが、常ならば、ややもすると聞こえてくるはずのあるじの答えが、今朝はない。
「姫さま?」
「どうか、なされましたか」
 不審に思った女房たちがさらに声を掛けると、ようやくか細い声がした。
「……気分が悪いの。しばらく、そっとしておいてちょうだい」
「まあ。どんなお具合でいらっしゃいますか」
「やすめば、治るわ」
 そのままふつりと途絶えた声に顔を見合わせていると、いつも真っ先に伺候しているはずの左衛門がようやく姿を見せた。
「左衛門どの。──姫さまのお具合が」
「ええ、承知いたしております。ですから、今これを」
 黒塗りの膳に乗せられたのは、薬湯の満たされた碗。
「姫さま。失礼いたします」
 返答を待たず、御帳台の中へすべり入った左衛門は、背を向けて伏せる四の君の枕辺に膝をついた。
「姫さま、薬湯をお持ちいたしました。お起きになれましょうか」
「……いらないわ。ひとりにして」
「姫さま。これさえお飲み下されば、お言葉の通りに致します。ですから、どうか」
「いらないと、言っているでしょう。お下がり」
 頑なに背を向けたまま、四の君は顔も見せない。
「……それでは、こちらに置いて参りますゆえ。お気が向かれたら、お上がりくださいまし」
 やむなく薬湯の碗だけをそこに残し、御帳台を出る。とたんに、左衛門は他の女房たちに取り巻かれた。
「左衛門どの、姫さまは」
「ええ。でも、こちらでは姫さまの障りになりますゆえ。皆さま、一度あちらへ」
 巧みに他の女房たちを余所へ促しつつ、左衛門は御帳台を振り返った。
「左衛門どの?」
「今、参ります」
 さわさわと衣擦れの音をさせつつ、御帳台の周りから人が退いていった。




 やがて陽も高く昇った頃、宿直とのいの任を終えた絢貴が右大臣邸に戻ってきた。
「お戻りなされませ」
「お務め、お疲れさまでございました」
 我先にと女房たちは出迎えたが、いつになく、どの者も落ち着きがない。
「何事か、ありましたか」
 その問いかけに、女房らは口々に訴えた。
「実は、姫さまが」
「今朝方からずっと、お伏せりで」
 驚いた絢貴は、着替えもそこそこに薫子のもとに赴いた。
 御帳台の周りに心配顔で詰めていた女房たちが、絢貴の姿を認めて一斉に平伏した。
「姫が伏せっておられると聞いたが」
「おそれながら。ゆうべより、御気分が優れないごようすで。先ほど御薬湯を差し上げたのですが、いらぬとばかり仰せで」
 四の君の乳母子だという若い女房が答え、絢貴はうなずいた。
「姫。私です」
 御帳台の外から声を掛けたが、四の君の返事はない。
 構わずに中に入ると、夜具を引きかぶった四の君が、女房たちの言葉通りに伏せっている。
「姫。御気分がお悪いと聞きました。まだ、お苦しいのですか」
 添い伏すように身体を傾け、囁くように尋ねる声。
 そのようすは和やかで、情に満ちており──かえって、昨夜の男の荒々しい所業が身のうちに蘇ってきて、薫子はたまらず袖に顔を隠した。
「やはり、お苦しいのですか。お可哀想に──」
 そんなこととは知らない絢貴は、なおいっそう、優しく薫子をいたわる。
 あてやかに芳しい香り。いかにも絢貴らしいその香に、薫子は涙した。




「──姫が伏せっておるとな。薬師くすしの手配はいかがした」
 にわかに、周囲が騒がしくなる。
「おお、絢貴どの。姫の具合は」
 御帳台から出てきた絢貴に、右大臣が大声で詰め寄った。
「大殿。どうかいま少し、お声を落とされますよう」
「おお。──これはすまぬ。姫の具合はいかがかな」
「まだ、お悪いようです。女房が差し上げた薬湯も、手つかずに残されておいででしたし」
「ふむ。薬湯を受け付けぬなら、祈祷じゃ。誰ぞ、僧侶に使いを」
 右大臣の指図で、女房たちはざわざわと散っていく。
 絢貴は、先ほどの乳母子を手招きした。
「左衛門」
「はい、若殿さま」
「中の碗をさげて、白湯さゆでも持ってきてくれまいか。あのようすでは、朝から何も口にしておられぬのだろう?」
「はい。すぐにご用意いたします」
 慌てた左衛門は、すぐに台盤所だいばんどころに向かったが、その途中で、同僚に呼び止められた。
「左衛門どの」
「あら、式部どの。何か?」
「ええ、実は先ほど、表にお使いの方がいらっしゃって。あなたにと御文を言付かったのだけれど」
「まあ、ありがとう」
「ただね、御名を仰らなくて。お渡しすれば分かりますから、とだけ」
「まあ……どなたかしら」
 首を傾げながらもとりあえず受け取った左衛門は、文から漂うほのかな香りに、はっとした。
「左衛門どの? どうかなさって」
「あ、いえ、何でもありませんわ。ありがとうございました」
 礼を述べ、左衛門は足早にその場を立ち去った。




 案の定、それは宰相中将からの文だった。
 隙を見てつぼねに下がり、それを確かめた左衛門は、深いため息をついた。
 あれから右大臣だけでなく母君までもが心配していらっしゃった上、僧侶の祈祷なども始まって、四の君の居所はいっそ騒々しいくらいである。
 当然、婿君である絢貴もその場におり、席を外すようすもない。
 何より今はそっとしておいて欲しいという、四の君の願いはまったくかなわず──さりとて、本当の事を言う訳にもいかず。
 それもこれも、すべてはこの御方の引き起こしたことと思うにつけ、左衛門は怒りを禁じ得なかった。
(このような御文、お渡しできるものですか)
 一存でそう思い定め、自分の書き損じなどと一緒に燃してしまうことにした。
 それにしても解せないこと、と左衛門は思う。
 昨夜、四の君の寝所をととのえたとき。左衛門はその証を見てしまった。
(あれほど仲の良いおふたりだのに──)
 結婚して以来、四の君が憂いがちだったその理由が、こんなところにあったとは驚くばかりだ。
 だが、四の君の名誉を守るためにも、このことも決して口外するわけにはいかない。
 決意も新たに、左衛門は裾を捌いて立ち上がった。 




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