[ 弐十 当惑 ]
「女房どのに文をお渡しいたしましたが、お返事はまた後日とのことで。その場ではいただけませんでした」
「女房どのに確かにお渡しもし、お返事をいただけぬものかとお願いもしてみたのですが、今は無理とのご返答で」
「あいにくと女房どのはおられず、致し方なく持ち帰った次第にござります」
「──分かった。下がれ」
使いに出した家人から、用を成さなかった文を受け取り、宰相中将は嘆息した。
あの逢瀬の夜から、十日ほどが経過している。
この間、四の君に直接文を出すわけにもいかず、ひたすら左衛門に宛てて文を書き続けた。だが、今もって芳しい返事がかえってきたためしはない。
唯一、何度も催促したあげく、やっと左衛門から得た返事には、『あの夜以来、姫君は伏せっておしまいになり、ご病気のごとき有様でいらっしゃます。常に中納言様がおそばに付いていらっしゃるので、お返事など望むべくもありません』と、素っ気ない言葉が連ねてあるばかり。
やはり、嫌われてしまったのだろうか。
ひどく強引な真似をしてしまったことは認める。だが、どうして諦められようか。一度は我がものとしたからには、なおさらだ。
(それにしても──)
数日来の物思いのなかで、もっとも驚きだっこと。
逢瀬の直後もむろん驚いたが、興奮が先に立って深くは考えなかった。しかし、考えれば考えるほど不可解だった。
(人目もはばからぬほど通い詰め、愛情を傾けていたひとだのに。まさか、まったく手を触れていなかったとは──)
しかし、今頃はきっと、何もかも露見してしまったことだろう。絢貴もさぞ落胆し、苦しんでいるのではなかろうか。
あれほど万事に優れて、苦手なことなど何もないように見えたのに──と思うそばから、確かに、色事だけは意外なほど疎かったと思い返す。
(女房のひとりもくどかず、浮いた噂もついぞ聞かぬ。それもこれも、ただ北の方ひとすじだからと思っていたが)
(やはり、あの中納言と言えども不得手はあったか)
(無理はせず、自然の流れに任せようと思っていたのか)
それが、いかにも絢貴らしいと思えるのは、やはりあの浮き世離れした美しさのせいだろう。
あのやさしげな容姿で益荒男ぶりを発揮するのは、やはり遠慮してほしいと思ってしまう。
しかし。
(このようなことがあった後は、かえって夫婦らしくなるのではなかろうか)
そう思いやると、ねたましさに身もだえしたくなる。
(なんとか、あの美しいひとを盗み出せまいか)
そんな願望さえ浮かんでくるが、あの夜の四の君のようすを思い浮かべると、二の足を踏んでしまうのも事実。
思いも掛けぬ出来事に、ただただ泣き沈むだけだった可憐な姿。
(結婚以来、中納言はあの穏やかな優しさで四の君を包んできたのだろう。それに慣れ親しんでいた姫が、私の振る舞いに驚くのは無理はない)
(私のことを──恨んでおられようか)
今もって四の君が伏せっているという事実が、その懸念に追い打ちをかける。
だが、あの夜。月を仰いでは、『見る我からの──』と憂わしげにつぶやいていた四の君の姿を思い出すと、一縷の望みをかけずにはいられなかった。
ところは変わって、右大臣邸である。
数日来、気分のすぐれないと言う四の君のそばについていた絢貴だったが、その病状はさしてひどくもならず、いつまでも邸に籠もってばかりもいられない。
そろそろ内裏にも参上しようと支度をととのえ、四の君に声をかけた。
「こんなにも晴れ晴れしくない心地でいらっしゃるのに、私までもがお側を離れては、安まる心も安まらないでしょうが、そうも言ってはいられません。あなたもいっそ、いつものようにお起きになってみませんか。そのほうが、意外にお気持ちも晴れるかも知れませんよ」
横たわる四の君の髪を撫でつつ、
「いつでも、私はあなたにも同じ心でいてほしいと、分け隔てなく心を開いてまいりました。この世にいつまでいられるかも分からぬ身ですが、その時が来ても、あなたの存在は誰よりも心残りとなるでしょう。そのあなたがこうして伏してしまわれては、私の生きる気力も失われてしまうようです。どうぞ、私のためにも元気になってください」
いつも光り輝いているような華やかな面差しも、きっと今は、愁いの色が濃いのだろう。
薫子は、心から自分の身を案じているようすの絢貴に、とても顔を合わせられなかった。
この十日ほどの間。何度も打ち明けようとしては、出来ずにいた。
口で言えぬことならば、いっそ何もかも露見してしまえば良いと、そればかりを願った。
けれど、今までいっさい自分にそういう意味合いで触れることがなかった絢貴が、ましてや今は伏している自分にそんな振る舞いをするはずもない。いまだに、秘密は保たれたままだった。
(どうして、こんなことに)
そう思うにつけ、涸れることのない涙が溢れてきて、薫子は夜具を引きかぶった。
いっそう顔をそむけた四の君が、夜具の中で小刻みにふるえている。
頑ななようすは、まるで結婚当初の頃に戻ってしまったようだ。だが、それでも絢貴はこのひとを大事に思っていたし、これからもそうしようと思っていた。
いみじくもさっき口にしたとおり、絢貴は、その身の秘密をのぞいてはいっさいの隠し立てをすることなく四の君に接してきた。その甲斐あって、このところは最初の頃とは比べものにならないほど、ふたりの仲はうち解けていた。
ただ、時折、もの問いたげな、憂いがちな視線を感じてはいたものの、あえて気付かないふりをした。そればかりは、どうあっても叶えられないことだったから。
(どなたかに、私の態度がおかしいと告げ口されたのだろうか)
そんな不安もあったが、面と向かってなじられるならともかく、こう泣いてばかりではわけが分からない。
「それでは、今から参内いたします。なるべく早く帰ってきますから」
最後にそう言い置いて、立ち上がった。
「皆、おそばに多く詰めていなさい。こうまで御気分がお悪いのならば、物の怪のしわざでもあろうから」
すっきりとした立ち姿は、まるで一幅の絵のようである。
女房たちが平伏する中、絢貴は右大臣邸から出立した。
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