[ 弐十壱 来訪 ]
「まあ、お久しぶりでございますこと、中納言さま」
麗景殿から宣耀殿に続く渡殿を歩み切ったところで、親しみのこもった口調で声を掛けられて、絢貴は振り返った。
見覚えがあるのも道理、左大臣家の女房のひとりで、弁の君という。
「ええ。こちらにも、ずいぶんと無沙汰をいたしました。督の君はいかがお過ごしですか」
「はい。先ほどからお待ちかねでいらっしゃいますわ。さ、どうぞ奥へ」
先導されて通された母屋の中、待ちかまえていた女房たちが一斉に頭を下げる。
「ご機嫌よろしゅう。督の君」
「あなたこそ、兄上さま。いらしてくださって、嬉しく存じます」
満座の中、ゆったりと構えた尚侍と几帳を挟んで、絢貴が腰をおろす。
相も変わらず見目麗しい兄妹に、其処此処でひそやかなため息が漏れる。
そんな視線にはとうに慣れてしまっている当のふたりは、幼い頃の疎遠ぶりが嘘のように親密に語り合った。
「長の無沙汰、まことに申し訳ありませんでした。毎日参上いたすとお約束しておりましたのに」
絢貴が詫びれば、尚侍がやんわりと受ける。
「そのようなこと、お気になされませぬよう。それよりも、北の方のご病状はいかがでいらっしゃいますか」
「ええ、相変わらず伏せってはいるのですが、悪い方へと向かうようすにはみえません。以前からどこか気鬱がちにはしておりましたから、疲れが出たのやもしれませんね」
「お気の毒なことです」
「そう、あなたにもお見舞いなどいただいたのでしたね。遅くなりましたが、あらためて御礼申し上げます」
「御礼など。もっと気の利いたものをお届けできれば良かったと、そればかり思っておりましたのに」
「何を仰られることか。気遣っていただける、そのお気持ちこそが尊いのです」
そうして会話も一段落してみれば、周囲の女房たちがどこか所在なげにしているようすが、ようやく目に入った。
「ああ、申し訳ない。皆に退屈させてしまいましたね。──そうだ。どなたか、ここ数日来の出来事などお話しくださいませんか。ごの通り、しばらく邸に引き籠もっていましたので、世の流れに取り残されてしまった心地なのです」
その場を引き立てるように絢貴が水を向けると、目配せし合った女房たちは、ひとりずつ手持ちの話題を披露し始めた。
内裏で起こったさまざまな出来事などを語るうち、なぜか話は宰相中将の身の上に移った。
「そう言えば、宰相中将さまはどうなさいましたのでしょう? おいでになるたびお断り申し上げるのも心苦しいほどでしたのに、この頃はお見かけもいたしません」
「あら。心苦しいと申せば、わたくしこそでしたわ。都鳥と思い違いなされておいでかと思えるほど重ねて請われるので、お役目をある方にお譲りしたのです。ところが、お譲りしたその方自身が、中将さまをお慕い申し上げるようになってしまわれて。おいでにならないのであれば、ちょうど良いではありませぬか」
「まあ、あなた。そのように申し上げてはお気の毒ですよ。それに、私のお聞きしたところでは、宰相中将さまはご病気だそうですわ。どなたよりも熱心にお通いでしたのに、この頃お姿の見えないのはそのせいでしょう。おいたわしいこと」
驚いたのは絢貴である。
「中将どのが病気? 本当ですか」
「はい。ここしばらくは、参内もしておられないそうですわ」
確信に満ちた女房の言葉に、絢貴は深くうなずいた。
「良く知らせてくれました。帰りにでも立ち寄ってみます」
その言に違うことなく、内裏を退出したその足で絢貴は式部卿宮家に赴いた。
「──いつにない家人の病に動転しておりましたら、よもや、貴方までもがお倒れになっておられたとは。お加減はいかがですか、中将どの」
式部卿宮家。
通された母屋の中、宰相中将は夜具に横たわったなりで絢貴を出迎えた。
「なに、熱が高いときにはさすがに身動きかなわなかったが、今はさほどでもない。大事をとって横になっているだけだ。心配をかけてすまなかったな、絢貴どの」
「いえ、それならようございました。私自身、久方ぶりに参内したところで、貴方がご病気と伺ったものですから。驚きましたよ」
「参内を控えていたのは、湯浴みをしてからと思ったからなんだよ。あいにくと日が悪くて、ずるずると伸びてしまった。──ところで、そちらの病人とは、どなたかな」
「ええ。実は、四の君なのです」
隠すことでもないので、絢貴は素直に答えた。
「先日、宿直から戻った朝には、すでに伏せっておりましてね。あれこれと手を尽くしたのが効いたのか、おかげさまで今ではだいぶん落ち着いたようすです」
「そうか。……それは、良かった」
「貴方のほうは、滝のよどみが恥ずかしくなるほど、たいそう面やつれなさいましたね。お顔の色も、まだよろしくない」
「そうだろうか。自分では、良く分からないのだが」
たいしたことはないと宰相中将は答えるが、実際、その顔色は良くない。これは、よほど具合が悪いのだろうと、絢貴は気の毒に思った。
「いいえ、そんな顔色の貴方は初めて拝見する気がいたします。ご病気というのも、お身体の加減が悪いというのではなく、何か心中深い悩みでもおありだからではないのですか」
ことさら冗談めかして尋ねてみれば、宰相中将は心に期することでもあるのか、心持ち顔を赤らめた。
「何を仰るやら。私が思いやつれる姿など、珍しいものでもあるまいに」
「おや。ようやく調子が戻ってこられましたか」
宰相中将ならではの口ぶりに、絢貴はにっこりと微笑んだ。
「申し訳ない、つい長居をしてしまいました。それでは、どうぞ、ご養生なさってください」
「こちらこそだ。わざわざ来てもらったのに、このような姿ですまなかった」
お気になさらず、と言い添えて、絢貴が立ち上がった。
折良く庭には、今を盛りと咲き誇る桜の花が、夕霧にまぎれるように優美な姿を見せている。
「見事なお庭ですね。お元気でいらしたら、まず一献、とでも申し上げるのですが」
先ほどの時間、絢貴はそう言って笑っていた。
だが、久方ぶりに目にした絢貴は、その桜の花さえかすむほどに美しい、と宰相中将はつくづくとそのうしろ姿を見送った。
絢貴の来訪を告げられたとき、宰相中将は、それこそ胸のつぶれんばかりに驚いた。 まさかもう露見したのかと青くなったのは言うまでもない。
しかし、顔を合わせれば丁寧ないたわりの言葉が、それに応じれば屈託のない笑顔が返ってきて、胸をなで下ろした。
それでも『何か悩みでもおありか』と問われたときには、動揺が少なからず面に出てしまったかも知れない。しかし、そのあとの言葉のやり取りからすれば、どうにかごまかせたものと見えた。
(私は、この優しい男を欺いているのだ)
直に顔を見ることで、ようやくその自覚が湧いてきて、宰相中将は自己嫌悪した。
だがその一方で、なんとか露見させずにすませたいと、心の奥で願っているのだ。
(この友人を、失いたくはない。──しかし、あのひとを諦めることもできない)
友情を重んじるならば、一夜の過ちとして、このまま四の君への慕情は葬り去るべきだと分かっている。分かってはいるのだが──。
(あのような男を朝夕に見慣れていれば、他の男など、物の数にも思われまい。尽きることのないこのつらい思いは、当然のことなのだ)
四の君に、この想いが届くことはないのだろうか、と。
思い悩むうちに涙さえこぼれてきて、宰相中将はまんじりともせず夜を明かした。
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