[ 弐十弐 心闇 ]







──あなただけが、頼みの綱なのだ


 あの日、絢貴が宿直でなければ、当初の思惑通り夜通し語り合ったに違いない。
 あれほど月が明るくなければ、四の君を垣間見ることもなかった。
 何より、女房たちが主人の傍から離れるなど、めったにあることではない。まさしく僥倖だったと、今になって言える。
 しかし、宰相中将は 再びの幸運をたのむつもりなどなかった。 
 高貴の姫君に逢うには、側仕えの女房の手引きがどうしても必要になる。だからこそ、あの逢瀬を唯一知っている侍女──左衛門に、狙いを定めた。
 ありとあらゆる言葉を尽くして、四の君への思いのたけを訴えた。言葉のかぎりを連ねた手紙を日に何度も送っては、かき口説いた。
 初めのうちこそ、それらの手紙に見向きもしなかった左衛門だが、人の噂に宰相中将が伏せってしまったらしいと聞くと、にわかに同情心が芽生えた。
(ご様子くらいなら、教えて差し上げても良いでしょう)
 見舞いがわりにと、軽く書き付けて送った手紙には、前にもまして熱烈な返信があった。


──あの夜の私のふるまいを思えばこそ、四の君にじかにお詫び申し上げたい


「いったいどうしたことだろうね。あのようにやつれた中将どのを拝見したのは、初めてだ。早く良くおなりだとよいけれど」


 親友の元を訪れた絢貴が、心配そうな口振りで語るようすを聞けば、それほど思い詰めておられるのかと驚き、お気の毒なことと、心が揺れる。


──ただ一目でよい。あのひとに、逢わせておくれ


 その激情は、物慣れぬ若女房を惑わすには、充分すぎた。




 四の君が伏せって以来、絢貴は参内も控えて、なるべくそばについていた。
 ようすを見て参内を再開しても、まだしばらくの間はと、宿直などはほかの公達に替わってもらっていたのだが、容態が落ち着いたとなるとそうも言ってはいられない。
「よりによって、こんな闇夜におそばにいて差し上げられないとは、申し訳ないかぎりです。戸締まりなどきちんとして、おやすみになってください」
 人少なというわけではないにせよ、女ばかりを残してゆくことに心を残しつつも、絢貴は出掛けていった。
「さ、皆様、若殿のお言いつけです。御格子をおろしてゆきましょう」
「ええ、では、わたくしはあちらから」
「それでは、わたくしはこちらを」
 手分けして夕仕事にかかった女房たちの中には、当然、左衛門の姿もある。
 きびきびと立ち働き、床を整え、いつにもまして念入りに四の君の髪をくしけずって髪箱におさめた。
 務めを終えた女房たちが、ひとりふたりと局に下がっていく中、最後に残ったのも、やはり左衛門だった。
「姫さま。それでは、私もさがらせていただきます」
「───」
 あの夜以来、四の君は極端に口数が少なくなってしまった。
 もとも儚げな美貌ではあったが、このところの憂いがちなようすは、よりいっそう頼りなげな佳人の風情である。
「おやすみなさいませ」




 夜半。かすかな物音に、薫子は目を覚ました。
 風が出てきたのだろうか。妻戸が、かすかにきしんだような気がした。だが、またゆるゆると眠りの中に引き込まれてゆく。
 しかし、再び目を開いてしまった。
 ひとの気配がする。左衛門あたりがようすを見に来たのだろうか。
「──左衛門?」
 どうにも気になって、帳の向こうに声を掛けると、誰かが身じろぐ気配がする。
「どう……」
 どうしたの、と問いかけた矢先。あえかな香が、鼻腔をくすぐった。
 嗅いだことのある匂い。だが、それは──。
 臥所のうえに身を起こす。帳が静かに持ち上げられ、人影が内側に滑り込んで来るのを、驚愕の眼差しで見やる。
「──姫君」
 押し殺した、ひくい声。
 逃げる間もあらばこそ、薫子は力強い男の手に抱き留められていた。




 一度許せば、二度三度も同じこと。そう割り切った訳ではなかったが、左衛門は以降、機会のあるごとに宰相中将を導き入れた。
 久方ぶりに目にした宰相中将の、驚くばかりに面やつれしたようすに、いたく同情したのがひとつ。
 夫である絢貴が、いまだ四の君を真実の妻としていないことに、不審の念を抱いたのがもうひとつの理由である。
(あれほど仲良くしておいでのようで、実は姫さまをお厭いなのかしら)
 だからと言って、夫以外の男性を主人の寝所に導き入れることが、罪深くないわけがない。だが、その迷いも、宰相中将の熱情の前には崩れ去る。
 結果、絢貴が宿直の夜や、実家に泊まっているときを選んでは、宰相中将を導いた。




 薄闇に、すすり泣く声が漏れる。
「お泣きあるな、愛しい方。そんなに嘆いてばかりいては、私までも悲しくなってしまう」
 その髪を撫でながら、宰相中将は愛しい姫をかき抱く。
「……恐ろしいことです。このようなこと、許されるはずがありません」
「あなたが気に病むことはない。すべては、あなたを奪った私の罪。ですからどうか、ふたりばかりのこのときだけは、私のことを考えて」
 重なる逢瀬のたびごとに、薫子は男の腕の中で涙をこぼした。
 最初はただ罪を上塗りすることを恐れ、惑い、泣くばかりだった。
 すでに数度、逢瀬を重ねた今でもその思いは変わらない。ほんの少しでも他人にそれと気取られたら、きっと生きてはいられないだろう──。
 その一方で、男の一途な愛情に、次第に心惹かれている。
(絢貴さまは、ほんとうにご立派でいらっしゃる。……けれど)
 優しい絢貴に、宰相中将のような激しい愛情は望むべくもないだろう、と。
 膚を合わせれば、そんな心の揺れも伝わるものか。このところの宰相中将は、いっそう優しく、それがいっそういたたまれない。
(わたくしは……いったいどうすれば良いのだろう)
 薫子の憂いは深い。けれど、その憂いのわけは、微妙に趣を変えつつあった。




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